『逃亡者は北へ向かう』
書籍情報:JPO出版情報登録センター
※書籍情報の無断転載を禁じます
『逃亡者は北へ向かう』柚月裕子著
[レビュアー] 遠藤秀紀(解剖学者・東京大教授)
震災 約束事の中の「実験」
円熟の力強い筆である。この人のストーリーテリングは、私の感性にぴったりと合う。
舞台は、十四年前、大震災時の東北だ。混乱の中、福島県から岩手県へ逃げる殺人犯と、追う捜査員。彼らに関わる作中人物は、住まい、暮らし、そしてときに愛する家族をも失っている。描かれるのは、自分も地域もどうなっていくか分からない中での、犯人の逃避行である。
本作を柚月裕子の「実験」と見る。というのも、まず、描かれる人物設定のほぼすべてに、私は物語としての既視感をもつのだ。
養護施設出身の犯罪者。心優しい人物が凶悪犯となる不運。偶然居合わせる愚かな悪人たち。逃避行が生む警察との心理戦。大人をイライラさせながら、なぜかつきまとう子供。崩壊している刑事の家庭。夫婦の切な過ぎる亀裂。親子の愛情と葛藤。
古典ミステリーや昭和以来の刑事ドラマで何十回と用いられた犯罪周辺の人間模様が、片っ端から投入される。こうした数々の要素は、現実に生じやすいかどうかではなく、「物語なるものはこうでなければならない」という約束事。すなわち定番のラインナップだ。
しかし、筆は約束事を敷き詰めた中に、たった一点、頁(ページ)を貫く「実験」を持ち込んだ。それが震災である。津波ひとつで、ミステリー空間の定番を演じる人生は一変するのだ。
流行(はや)りの特殊設定小説に食傷気味の読者も多かろう。私も、物語空間は特殊であるよりは、自然な方が好きだ。奇をてらわずに、重く、深く、緻(ち)密(みつ)に人物の心を描く。それが書き手の揺るがない実力であると信じる。本作は災害という重い事実を導入しながら、最後まで自然に、登場人物に人生を歩ませようとする。
既に、震災を背景にした様々な文学が生まれている。そして十四年を経て、柚月裕子の確かな筆をもって、津波の悲しみと自然な人生がいま丁寧に重ね合わされた。傑作である。(新潮社、2090円)