『墳墓記』
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<書評>『墳墓記』高村薫 著 [評]安田登(能楽師)
[レビュアー] 安田登(能楽師)
◆豊穣な音の揺らぎと深み
まったく新しい読書体験である。
祖父と父を能楽師に持つ元法廷速記者の男が、古希を迎えた数年後に自死をはかる。救命の機器に繫(つな)がれている短い時間に、パノラマ視現象のごとく鉛直方向に出現する永遠の夢が描かれる。
記録ではなく記憶である。記憶の主体は男ではあるが、あるいは藤原定家になり、あるいは他の古典の人物になる。男の時には現代語、古典の登場人物の時には古語が使われ、時間も文体も縦横無尽に交錯する。
古語は、集合的な言語である。現代語の「悲しい」は個人の感情を表すが、古語の「かなし(可愛い)」は集合的だ。古語を駆使する本書においても記憶は個人を越え、集合的となり、読者も巻き込まれる。読者は登場人物の物語を追体験するのではなく、彼らとともに自身の失われた時を揺蕩(たゆた)う。
「揺蕩い」の場は夢想の回廊であり、声のプールである。死に際して最後まで残る感覚は聴覚だという。視覚も運動も奪われた者に残る音。霞(かす)む意識の彼方(かなた)から訪れる、自己や歴史に埋もれた声音の記憶の断片が位相空間をつなぐ橋掛りとなって、能楽、音楽、バレエ、和歌等の物語空間を時空を越えて逍遥(しょうよう)する。
「言葉の意味よりも人の声が醸し出す豊穣(ほうじょう)な音の揺らぎと深みが、その場にいる者の心身を揺さぶるのだ」と書くように、そこに意味はいらない。
本書には男を含めて3人の自死者が登場するが、自死の理由は書かれない。大学3年生の春、マンションの屋上から飛び降りた娘、ひなも「五月病でも失恋でもない、ただ自分の身体で決然と自由落下を行った」にすぎない。
意味が執拗(しつよう)なほど求められる現代に、意味も論理も切り捨てる本書は気持ちいい。
本書には朗読が必須であろう。思いはこめず現代語の部分は淡々と、古語の部分は謡曲風に。そして毎夜眠る前に一章読む。すると夢に本書が侵入し、覚醒時にまた本書を読めば、自身の夢の断片も本書に織り込まれる。
(新潮社・2090円)
1953年生まれ。作家。『マークスの山』『土の記』など作品多数。
◆もう1冊
『日本人の身体』安田登著(ちくま新書)。能楽師による身体をめぐるエッセー。