野望に憑かれ、平然と他人を踏み台にする…しかしなぜか憎めない「小澤征爾」の生涯 スキャンダルも隠さず伝える

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タクトは踊る 風雲児・小澤征爾の生涯

『タクトは踊る 風雲児・小澤征爾の生涯』

著者
中丸 美繪 [著]
出版社
文藝春秋
ジャンル
文学/日本文学、評論、随筆、その他
ISBN
9784163919485
発売日
2025/02/26
価格
2,420円(税込)

書籍情報:JPO出版情報登録センター
※書籍情報の無断転載を禁じます

ヒーロー礼賛か、スキャンダル暴露か 綱渡りをクリアした「世界のオザワ」伝

[レビュアー] 岡田暁生(京都大教授・西洋音楽史)

 戦後高度経済成長期の日本を象徴する大スターといえば小澤征爾と長嶋茂雄に尽きると、私はずっと思ってきた。日本人離れした怖いものしらず。何をしようが許される天衣無縫。文句なしの華。しかも小澤は若くして日本を飛び出し、瞬く間に国際舞台へ駆け上がった。彼はみんなが上を向いて歩いていた時代の「お星さま」であった。

 そもそも「星」とはアンタッチャブルな存在であろう。触れることが出来ないものについて伝記を書くのは至難の業だ。ヒーロー礼賛に終始するか、それともスキャンダル暴露的になってしまうか。この綱渡りを見事にクリアしたのが本書である。業界の人間なら誰もが知る「触れてはならないネタ」もいろいろあったはずだ。有名なN響によるボイコット事件、国際的活躍の背後にはいろいろ業界の思惑が働いていたこと、財界タニマチの存在も大きかったこと等々。これらも含め本書『タクトは踊る 風雲児・小澤征爾の生涯』は何も伏せたりはしない。すべて事実に基づいて、しかし共感をもって、淡々と記述していく。だからこそ読者を引き込む。

 小澤は「音楽を通して国際的に認められる」という野望に憑かれていた人物とみえる。そのためなら平然と他人を踏み台にする。しかしなぜか憎めない。進退窮まるとどこからともなく救いの手が差し伸べられる。彼を利用しようとする面々までうまく利用してしまう。まるで小説のようだ。「利用しようとする面々」といえば、とりわけ所属事務所だったアメリカのコロンビア・アーティスツ、そして彼をウィーンに呼んだホーレンダーという人物は要注目。「世界のオザワ」が生き抜いたのはワニ池のごとき「業界」であり、きれいごとではすまないのだ。

 ウィーンを失意のうちに去り、病を得てからの晩年は、輝かしい前半生と比べて不遇だったというべきだろう。だが音楽への執念は枯れるどころか、幽鬼のごとく凄みを増していったとみえる。あるインタビューで小澤が「脈絡なく『僕は猿ですから』と言ってインタビュアーを戸惑わせた」という一節が本書に出てくる。本心から悔しかったのだと思う。満州で生まれ、大正教養主義の香りが残る成城中学に通い、西洋の音楽に魅了されて現地に旅立っていった小澤。しかし山頂に近づくほど、実は東洋人など本気で相手にはしていない白人文化の本音を思い知らされることがなかったはずがない。今の日本からはもう出ないだろう型破りな風雲児の、面白くも哀しく壮絶な生きざまが蘇える名著である。

新潮社 週刊新潮
2025年6月5日号 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

新潮社

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