『潮音 第一巻』
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<書評>『潮音 全4巻』宮本輝 著
[レビュアー] 重里徹也(聖徳大特任教授・文芸評論家)
◆動乱期生きた人々の息遣い
越中富山の薬売りの視点から、幕末・維新を描いた大河歴史小説。大きく揺れ動く時代の変化にもてあそばれながら、地をはうようにして懸命に生きた人々の息遣いが聞こえてくる。宮本文学の代表作の一つとして、長く読み継がれる作品になるだろう。
小説の全体は明治10年代に、主人公の弥一が往時を振り返って語る構成になっている。密貿易を通した富山藩と薩摩藩の密接な関係を背景に、弥一は富山の薬売りとして、関西や九州を駆け抜ける。
小説を彩るのは薬売りたち、薬種問屋、廻船問屋、飛脚屋などの人々だ。印象深い商人や下級藩士も登場する。交通や流通に従事する人たちが中心で、日本列島を動き回りながら、人体にたとえれば血管のように、この国を支えている。時に毛細血管になって列島の津々浦々まで歩く彼らが、肌で感じた社会、耳に聞いたうわさ、語り合った評判から、歴史が紡がれる。
だから、西郷も大久保も、坂本龍馬や勝海舟も、岩倉具視や徳川慶喜も、直接には触れられない。肉声も聴けないし、実際に見ることもない。いつも、下から見上げるように、彼らの動きが伝わってくる。このために、それらの人物の存在感は薄くなるだろうか。いいや、逆だ。距離を置くことで、地べたから仰ぎ見ることで、彼らの本質や価値が鮮やかに見えてくる。
生活者の生身の感触。この小説で最も大切にされているものの一つだろう。弥一をはじめ、主要人物たちの友情、彼らの恋愛と結婚、親子の思い、所属する組織との関係が繊細に描かれる。悩みや疲れも、身体の調子や怒りも、丹念につづられる。このため、読者もその場に居合わせたような臨場感を楽しめる。
日本を食い物にしようと狙う欧米列強に抗して、近代化を急がねばならない。国際情勢は待ったなしだ。富山の薬売りを第一に考える我らが弥一は、近代というものを肌で理解し、なんとか時代の急流をしのぎ、適応しようと奮闘する。波瀾(はらん)万丈の人間模様を味わいながら、歴史が動く音が確かに聞こえてくる。
(文芸春秋・各2420円)
1947年生まれ。作家。著書に『泥の河』『螢川』『優駿』など多数。
◆もう1冊
『流転の海』(全9部)宮本輝著(新潮文庫)。著者の父親がモデルの大長編小説。