「国家と国家の権力史」と対峙した古事記研究の泰斗・三浦佑之、「コテンパンやなぁ」と万葉学者・上野誠が驚いた日本神話論とは

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「海の民」の日本神話

『「海の民」の日本神話』

著者
三浦 佑之 [著]
出版社
新潮社
ジャンル
文学/日本文学、評論、随筆、その他
ISBN
9784106038723
発売日
2021/09/24
価格
1,815円(税込)

書籍情報:JPO出版情報登録センター
※書籍情報の無断転載を禁じます

国家史から開放された神話の世界

[レビュアー] 上野誠(國學院大學特別専任教授)

 万葉学の第一人者・上野誠氏が、驚きとともに深い感銘を受けた一冊がある。

 古事記研究の泰斗である三浦佑之氏が刊行した『「海の民」の日本神話――古代ヤポネシア表通りをゆく』(新潮社)だ。

 本書は、日本海を起点に、「古事記」「日本書紀」「万葉集」「風土記」といった古典文献のみならず、考古学や人類学など最新の知見も縦横に取り入れながら、日本神話の核心に迫っていく。

 読み進めていく中で、思わず「コテンパンやなぁ」と独り言を漏らしたという上野氏。その率直な驚きと敬意がにじむ書評を紹介する。

上野誠・評「国家史から開放された神話の世界」

 副題にある「ヤポネシア」は、島尾敏雄(一九一七―一九八六)に学ぶものであるが、それは、日本も一つの「シマ」であり、広く東南、北東アジアの地域の一つとして位置付けて、「日本」という国家史の枠組みから解放するための用語である。

 本書は、広くいえば「海の民」の交流から見た日本神話論であり、著者の長年の研究から導き出される新論、いや新々論といえよう。目次を示すと、次のようになる。

序章  古代ヤポネシア「表通り」
第一章 海に生きる――筑紫の海の神と海の民
第二章 海の道を歩く――出雲・伯伎・稲羽
第三章 神や異界と接触する――但馬・丹後・丹波
第四章 境界の土地をめぐる――若狭と角鹿
第五章 北へ向かう、北から訪れる――越前・越中・能登
第六章 女神がつなぐ――高志と諏訪、そして出雲
終章  国家に向かう前に

 通覧すると、あぁ、裏日本、日本海流の交流史から見た神話論か、とわかるだろう。が、しかし。本書の問いかけは、今日の日本列島を中心とした国家史から神話を解放するものなので、読者はこの点を注意して読むべきである。

 もともと「クニ」という語は、小地域を示す言葉であった。たとえば、律令国家の「大和国」のなかにも「ヨシノノクニ」(奈良県吉野地方)や「ハツセヲグニ」(奈良県桜井市長谷)などがあった。それぞれの「クニ」が交流、競争、協調して、それぞれの時代の生活があったわけである。たとえば、「イヅモノクニ」と「コシノクニ」が「海の民」によって結ばれ、交流して、ヒト、モノの交換をして、それぞれの「クニ」が成り立っていたのである。その交流の跡を、翡翠の流通やヤチホコの神の〈ヨバヒ〉伝承からも学ぶことができるのである。

 今の国家史の枠組みから見れば、「新羅国」は、かつて朝鮮半島に存在した一国家だが、古代の「イヅモノクニ」の人びとから見れば、交流していた「クニ」の一つに過ぎない。スサノヲやアメノヒボコの記紀神話を見ても、ちょっと遠くから来た神くらいにしか、見ていないことがわかる。

 本書が仮想敵としているのは、
(1) 近代国家を無意識に前提とした国家史
(2) 国家の中でも、鉄と米による王権支配論
(3) ヤマト中心史観
 の三つである。読み進めていて、ふと独言を発してしまった。

 えぇ、石母田正(一九一二―一九八六)なんて、コテンパンやなぁ、今の三浦先生には――。

 石母田古代史学は、国家と国家の権力史であり、その中で、東アジアの国家関係を捉えようとするものであった。発表された当時は、刮目の雄であったが――。

 じつは本書は、まさしく、今、読まれるべき本なのである。

A ネットで自由に結ばれ、ヒトとモノの移動が自由にできるようになり、国家や国境の意味が問われている時代

B 高度経済成長時代は、鉄の生産量と米の生産量の多寡が幸福度を計る目安であったが、もうこの二つが幸福度とは結びついていない時代

C 中央と地方との関係ですべてを考えても、もう新しいものは生まれてこない。地域間での交流や都市交流の方が、実際の生活では大切ではないのか、と思われている時代

 そういう観点を反映して、本書は書かれているし、読者も、日本の古代社会の多様性について学べる本だと思う。

 あらゆる歴史像は、すべて近代史であるとは、評者もわかっているのだが、それを研究に活かすことは難しい。評者なりに考えると、近代国家のゆらぎの中で生まれた学問には、一つの潮流があると思う。その一つは、ソフトなものの歴史を扱うことだ。「ムラ」から歴史を見る民俗学。香や木陰にも歴史はあると説いたアラン・コルバン(一九三六―)。非稲作民の歴史を説いた網野善彦(一九二八―二〇〇四)。彼らは、新しい歴史像を構築しようとした。本書は、その流れの中で、リニューアルされた新々神話論なのである。

 もう一つ、本書の重要な特徴がある。それは歩く神話論、古代交流史になっていることだ。つまり、交流の痕跡を辿る旅になっているということである。ひっそりと、祀られている神社の神が、遠くからやって来た神だったりする。

 交流によって、その地に残された痕跡というものがある。中国で発見された古代ローマの硬貨。北斎とゴッホ。なんで山の中に、海の民の祀る神のお社があるのか。糸魚川の翡翠がここにも。

 近代の学問は、あまりにも頭でっかちになり過ぎている。本書を読むことによって、私たちは「古代」への旅に誘われることになるのだ。私も、ここには、行ってみたいというところがいくつかあった。そこには、付箋が貼ってある。

新潮社 波
2025年6月号 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

新潮社

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