『温泉小説』
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『温泉小説』朝比奈あすか著
[レビュアー] 遠藤秀紀(解剖学者・東京大教授)
過去を吐露し慄く男女
朝比奈あすかの筆が生み出す人物は、つねに揺るぎない土台の上を生きている。だから、涙を誘っても爽快感を運んできても、描かれる人生は無理なく自然だ。そのことが紙上に高度なリアリティを実現することもあれば、読者の心を切り裂く刃(やいば)に化けることもある。秀逸だ。すばらしい。こういう作風を私は好む。
本作、男女各世代の人間を選び、逃げ道を塞ぐ。三十を過ぎて無職の女は、周囲の異性を友達と位置づけてやり過ごすうちに、気づけば孤独を相手に生きている。後期高齢者の男性は、娘から運転免許証を返納するよう迫られ、老いを前に心の柔軟さを失う自分から目を逸(そ)らそうとする。四十代の女性は、母校のキリスト教系学園とその同窓生へのわだかまりに悪態をつきながら、母親との軋(あつ)轢(れき)の日々を過ごす。偶然、嫁と孫との三人の時間を過ごした男は、真の話し相手は先立たれた妻しか居ないことに気づき始める……。温かくて切ない人生ドキュメンタリーの連続だ。
すべての人物に過去を吐露する時間が与えられる。昨日を吐き出せば、次に人間は、明日に怯(おび)えるしか生きる術(すべ)がないのだろう。読み手は、そんな彼ら彼女らの心の断面を見て、イライラもすれば、応援もし、泣きたくもなる。だが、朝比奈あすかは人情や感傷には頼らない。隙や生ぬるさを排除した筆の牢(ろう)獄(ごく)から、登場人物は、誰一人、逃れることはできない。緻(ち)密(みつ)な物語空間で、みな未来に慄(おのの)くばかりだ。
全編、クライマックスは温泉だ。なぜ温泉か、思案した。壇上の人物を、自分をさらけ出せる閉鎖空間に隔離することが、温泉の本意か。温泉へ向かうという状況をこしらえて主人公を幽閉し、人生の葛藤やわだかまりを喋(しゃべ)らせるのが、温泉の役割か。ちょっと考えれば、行き先は別に温泉でなくてもよいことに気づく。
だが、それでもやはり、温泉はいい。人生を独白させるには、温泉は最高の舞台なのだ。(光文社、1870円)