『みえないもの』イリナ・グリゴレ著

レビュー

  • シェア
  • ポスト
  • ブックマーク

みえないもの

『みえないもの』

著者
イリナ グリゴレ [著]
出版社
柏書房
ジャンル
文学/日本文学、評論、随筆、その他
ISBN
9784760156306
発売日
2025/04/12
価格
1,980円(税込)

書籍情報:JPO出版情報登録センター
※書籍情報の無断転載を禁じます

『みえないもの』イリナ・グリゴレ著

[レビュアー] 奥野克巳(人類学者・立教大教授)

閃きと肌触り伴う語り

 自己の経験を素材に綴(つづ)るのが、オートエスノグラフィー(自伝的民族誌)である。本書ではその語りに、詩のような閃(ひらめ)きと身体経験の肌触りが吹き込まれる。著者は母であり、教育者であり、ルーマニアから留学生として来日し、日本語を身に付けた人類学者でもある。それら視線が交錯し立ち上がるのは、日本語との邂(かい)逅(こう)で開かれた、静けさの奥に熱情宿す思索である。

 「男」が暴力の影を帯びて現れ、その痛みに傷つきながらもなお、愛という温もりを求める著者の葛藤は、読後も胸の奥に残響する。こうした内面の波立ちは、フェミニズムの眼(まな)差(ざ)しと交わりながら、日々のエッセイと、紡がれた物語の中に脈打っている。いくつか見てみよう。

 「綿飴(あめ)、いちご飴とお化け屋敷」では、温泉の湯けむりに浮かぶ人の顔や祭りの喧(けん)騒(そう)、甘味の記憶、アカシアの香り、蟻(あり)の感触や蛙(かえる)の声といった、独特で動きのある記述を通して、現実と非現実が緩やかに溶け合う、やさしい光景が描かれる。綿毛を「かわい子ちゃん」と呼ぶ娘の眼差しには、人と動植物がともに生きていることへの静かな共感がにじみ出ている。

 「蜘蛛(くも)を頭に乗せる日」は、ガルシア=マルケス『予告された殺人の記録』へのオマージュのような創作短編。制度的暴力や儀礼が身体を貫くさまが描かれ、赤い糸や蜘蛛といった象徴が生の実感として浮かび上がり、余韻を残す。

 「果実の身代わり」では、主人公が弟を庇(かば)うように、小さな虫や暴力を引き受けていく姿に心を奪われる。樹液に封じ込められる虫のように、彼女も「みえない」力に囚(とら)われ、気づかぬうちに世界の痛みの身代わりとなっていたのだ。

 本書は人類学を超えた文学であり、文学を超えたエスノグラフィーである。肌に残る感覚、味や匂い、目に映る景色、耳を掠(かす)めた声などを手がかりに、世界の「みえなさ」に触れる言葉は、私たちの心の襞(ひだ)に響いてくる。読むたびに心に違う風が吹く、魂を震わせる一冊だ。(柏書房、1980円)

読売新聞
2025年6月13日 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

読売新聞

  • シェア
  • ポスト
  • ブックマーク