「AIには吹けない法螺の吹き方」に挑んだ作家・円城塔が語る、戦国SF小説『去年、本能寺で』の構想
インタビュー
『去年、本能寺で』
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[円城塔『去年、本能寺で』刊行記念インタビュー]AIには吹けない法螺の吹き方
[文] 新潮社
円城塔氏
AIがどんなに発達しても、作家が紡ぐ「人間にしか吹けない法螺(ほら)」には到底及ばない――。
そう思わせてくれる、歴史とSFを融合させた最新短編集『去年、本能寺で』(新潮社)を世に送り出したのは、現在「攻殻機動隊 THE GHOST IN THE SHELL」の脚本/シリーズ構成でも注目される作家・円城塔氏だ。
織田信長を転生させ、細川幽斎をAIに見立て、歴史小説の常識に大胆に切り込む円城氏の作品は、AI時代にあってもなお人間の創造力が必要であることを証明する。
いったいどんな作品で、どんな構想を持って書かれた作品なのか? 歴史好きもSF好きも見逃せない、新たな歴史小説の世界を探ります。
円城塔・インタビュー「AIには吹けない法螺の吹き方」
――『去年、本能寺で』は日本史に題材をとった全11編の短編集です。個々のアイデアはSF的ですが、語り口は歴史小説のような趣があります。どのような発想でお書きになられたのでしょうか。
なんでしょうね。ジャンルは難しいのですが、素朴に見たまま、思ったままを調べながら書いた、というところでしょうか。史料には、素直に読むとこう解釈できるだろうという箇所があります。また、現代の読者に伝えるには、このような比喩が効果的だろうと思う箇所もあります。たとえば「幽斎闕疑抄」では戦国時代の武人であり、当代随一の文化人である細川幽斎を扱いました。彼は――彼というほど親しくはないのですが――実にメカっぽい。当時の文化の脈絡が結集したマシーンのように思える。和歌も極めて儀礼的で形式に則って詠み、武術もまた型が第一である。料理においても、人間味のない包丁で、魚をこう配置する、こうやって切る、と作法ばかりが語られる。それをそのまま書こうとした場合、AIだった、とすると収まりがよく感じられる。
――最初に戦国時代にAIを登場させようというアイデアがあったのではなく、細川幽斎のことを調べるうちにAIと解釈すると腑に落ちるものがあったというわけですね。
そうですね。史料を読んでいくと不思議に感じることが出てきて、それを掘り下げていくと、また新たな謎が見つかります。その謎を素直に、その不思議さのままに書いていくと、さらに変わった展開になっていく。そういった積み重ねで出来上がったものが、本作『去年、本能寺で』ということになるかと思います。
――作中では北米で流布された珍説「坂上田村麻呂黒人説」や歴史学で新たな定説となった「斎藤道三二代説」などを取り上げていらっしゃいます。
円城塔氏
どちらも長年気になっていた題材でした。坂上田村麻呂の場合は、黒人解放運動の文脈で、歴史上の著名な黒人を顕彰する動きに巻き込まれ、いつの間にか黒人とされてしまった。珍説として笑い飛ばすのは簡単ですが、アカデミックな研究にも影響を及ぼし、日本通として知られる研究者のなかにも「坂上田村麻呂は黒人だった」と大真面目に主張する人がいる。昨年、「アサシンクリード シャドウズ」というゲームの発売が発表された際、織田信長に仕えた黒人「弥助」というキャラクターが物議を醸しましたが、そこでも「坂上田村麻呂黒人説」が再び注目を集めました。これは書いておかねばと思ったのです。
また斎藤道三の国盗りについても、一代で成し遂げられたものではなく、父子二代にわたる事業だったというのが、すでに歴史学ではそういうことになって久しいのですが、依然として司馬遼太郎の『国盗り物語』のイメージが更新されないままです。新しい発見が登場すると、他分野への伝播に10年、一般社会への普及にさらに10年かかるといいますが、歴史についての認識にも同じことが言えるでしょう。道三を巡る認識のズレを、自分なりの方法で書くと「三人道三」になった。
――私も本作の原稿を読むまで、国盗りの事績は道三ひとりのものだと思っていました。司馬遼太郎が描いた道三の姿が強い印象を残していて、今でもそのイメージが一般に流通している気がします。
司馬遼太郎の影響は、やはり絶大です。その歴史認識の是非はいったん措くとして、歴史は日々研究され、実証的に更新されていくものですから、それに従って日本史の描き方も変えていく必要がある。実際、司馬遼太郎の読者が学芸員に「司馬先生が書いていることと違うじゃないか」とバトルを挑むようなことも起きています。小説における日本史のアップデートは必須ですし、その書き方も含め、もっと風通しをよくしたいという思いがあります。本作の「タムラマロ・ザ・ブラック」では、「征夷大将軍」の語に「コマンダーインチーフオブジエクスピディショナリィフォースアゲインストザバーバリアンズ」とルビを振ってみたのですが、そうやって歴史小説の日本語をずらしていって、暗黙の約束ごとから自由になる書き方を模索しました。
――本作では、司馬遼太郎の作品の語り口を意識された箇所もあると伺っていますが、司馬作品はどのようなところが特徴的だと感じていますか。
司馬の語り口は、実に魔術的です。普通、作家の主張は露骨に表れるか、こっそり仕込まれるかのどちらかですが、司馬の場合、独特の融合の仕方で表れる。これは日本語の特性である主語の省略可能性を巧みに利用した語り口であり、一種の魔術です。悪用すれば大変危険なことにもなりかねない。
ポイントは、短い言葉でさらっと書くこと。長々と書かれると読者は疑問を持ちますが、短い表現だと自然と受け入れられ、真実として刷り込まれていく。たとえば、「日本人は健気だ」と書かれれば「そうかもしれない」と思ってしまう。でも、どんな民族だって健気なところはあるわけです。「アメリカ人は健気だ」「ヴァイキングは健気だ」と言っても、そうかもしれないと思うでしょう。これはほぼトートロジーに近いのです。