『江藤淳と加藤典洋 戦後史を歩きなおす』
書籍情報:JPO出版情報登録センター
※書籍情報の無断転載を禁じます
<書評>『江藤淳と加藤典洋 戦後史を歩きなおす』與那覇潤 著
[レビュアー] 川村湊(文芸評論家)
◆我々のねじれ、ゆがみを自覚
江藤淳は「無条件降伏」について、本多秋五との間で論争した。加藤典洋は日本人の戦死者への追悼を先立たせるべきだとし、高橋哲哉らと論戦した。無条件降伏をしたのは日本軍であって日本国ではない。アジアの死者よりも日本の死者を悼むことを先立せたとしても、日本人の心情からして当然だ。江藤・加藤は挑発的にそんな言い方をして、戦後文学論争に、あるいは戦後論壇に一石を投じようとしたのである。
本書は、2人の文芸評論家の歩みに寄り添いつつ、日本人の戦後80年の遍歴をたどる試み。彼らは戦後空間に“アメリカの影”を見て、日本の戦後文学がそれらに制約されていることを論証しようとした(それは彼ら自身がそうした制約の枠の中にいることを示している)。彼らは“戦後の我われ”がゆがみ、ねじれていることを自覚している。
評者は、2人はよく似た体質を持っていると思う。ゆがみやねじれが社会的なところから胚胎(はいたい)したのか、あるいは個人的なところから生まれたのかを自分に問うことを避けているようだ。江藤の言うようにGHQの検閲があったからといって、戦後文学の作品がことごとく“仇花(あだはな)”だというものでもないだろう。戦後精神がねじれ、ゆがんでいたとしても、“戦後の我われ”はすでに80年も現実に生き延びてきたのだ。憲法9条を“(国民投票で)選び直す”(加藤)ことは茶番であり、何の実現性も有効性も持たない。
著者は、加藤を「最後の文芸批評家」と呼んでいる。確かに戦後史、戦後空間をあらためて読み返す、歩き直すという意味では、加藤の批評はそれを実践した。著者はついには、加藤の『太宰と井伏』から、私たちはねじれながら生きていくしかない、というメッセージを受け取る。
しかし、戦後文学の達成を虚(むな)しく思い、自らの中のゆがみを個人に根差したものとして感じる者たちにとって、次の戦争はその解決を意味することになるのではないか。その時に「戦後」の批評は終わって、「戦前」の批評が待機しているのではないだろうか。
(文芸春秋・2090円)
1979年生まれ。歴史家・評論家。『知性は死なない』など。
◆もう1冊
『江藤淳は甦える』平山周吉著(新潮社)


























