山手線の正式名称は「やまのてせん」。じつは知らない「東京の駅名」の謎にせまる!

レビュー

  • シェア
  • ポスト
  • ブックマーク

山手線「駅名」の謎

『山手線「駅名」の謎』

著者
小林明 [著]
出版社
鉄人社
ジャンル
歴史・地理/地理
ISBN
9784865373035
発売日
2025/07/28
価格
1,870円(税込)

書籍情報:JPO出版情報登録センター
※書籍情報の無断転載を禁じます

【毎日書評】山手線の正式名称は「やまのてせん」。じつは知らない「東京の駅名」の謎にせまる!

[レビュアー] 印南敦史(作家、書評家)

「やまてせん」か、「やまのてせん」か。

山手線「駅名」の謎』(小林 明 著、鉄人社)は、「山手線」の呼び方についての問いからスタートします。正式には「やまのてせん」。あまり知られていませんが、昭和46年(1971)に旧国鉄によって呼称が統一されているのだそうです。

第二次大戦後、GHQが国鉄全路線にローマ字表記を義務づけた際は「YAMATE LINE」と記されていた。それが昭和46年に「YAMANOTE」になったのは、神奈川県の横浜―根岸―大船駅の根岸線に「山手(やまて)駅」があったため、混同を避けるなどが理由だったという。それにもかかわらず、50年以上を経た現在も「やまてせん」と呼ぶ人は少なくない。(「はじめに」より)

たしかに私も、「やまのてせん」を否定はしないものの、日常的には「やまてせん」と呼んでいるような気がします。

なお「山手線」はあくまで通称で、運行系統上は田端―東京間が東北本線、東京―品川間が東海道本線に属し、正式な山手線区間は品川―田端間(新宿経由)の20.6キロメートルだけなのだとか。要するに品川が起点で、渋谷や新宿を通過したのちにたどり着く田端が終点だということです。

環状線の東側が山手台地の端に沿って走っていることも、知られていない。駒込―上野間の車窓から見ると切り立った崖が続いているが、あの崖が台地の東端で、地形的にはここを境に台地の上が「山の手」、下が「下町」に区分される。(「はじめに」より)

著者いわく、山手線の駅名は歴史の宝庫。それは変貌し続ける近代的な大都市にありながら、町(街)の成立を伝える普遍的な遺産だともいえるわけです。本書も、そうした遺産を体感してもらうために書かれたようです。

きょうはそのなかから、多くの方々にとってなじみ深い「渋谷駅」の“謎”について触れてみたいと思います

駅名の由来には3つの説がある

日本を訪れる外国人にとっての観光スポットでもある「渋谷スクランブル交差点」がある渋谷は、人流が世界一多いともいわれています。ところがこの一帯も、明治時代まではのどかな農村だったといいます。

農研機構『歴史的農業環境閲覧システム』によると渋谷駅周辺は「上渋谷村」「中渋谷村」「下渋谷村」に分かれ、畑、茶、梨に囲まれていた。ここに駅が誕生したのは明治18年(1885)3月1日で、3つの村は明治22年(1889)の町村制施行で合併して「渋谷村」となり、明治42年(1909)に「渋谷町」となった。(158ページより)

渋谷町の人口は、大正9年(1920)の第1回国勢調査によると約8万1000人で、「町」としては全国最大規模だったそう。渋谷駅が開業したことで、急速に人が流入してきたわけです。

しかし、そもそもなぜ「渋谷」なのでしょうか? 地名の由来については、以下のような複数の説があるようです。

<地形・海辺説>「塩谷の里」と呼ばれていたのが転じて渋谷となった。太古の昔、この地は海辺だった可能性が高く、深く掘ると塩がとれたという。

<地形・川沿いの低地説>川が流れ、流域が凹型の低地、つまり谷あいになっていた。また、川の水が鉄分を含んだ渋い色(赤茶)だったことから、渋い色の谷=渋谷となった説。(158ページより)

この川が、現在も渋谷駅の南から天現寺橋まで2.4キロメートルを流れる渋谷川。それ以外は地下に埋められて暗渠となり、現在は下水道幹線です。また、あまり知られていませんが、渋谷川の支流で、参宮橋方面に流れる河骨川は童謡『春の小川』のモデルとなったのだそうです。

さらに、平安時代後期、京都の御所に侵入した盗賊を捕縛し、天皇から「渋谷」姓を賜った武士が、この地にやってきて支配したとする<人名・平安期のエピソード説>もあるといいます。

地名研究家の谷川彰英によれば、信頼できる説は「塩谷の里からの転じ」だという。いわゆる「地形由来」の地名である。また、川の流れる谷あいの地説も、地形的には間違っていないため捨てがたいという。(158ページより)

ちなみに山手線の最標高駅は代々木駅で標高38.7メートル。そこから渋谷駅周辺の約15メートルまで一気に下がり、また恵比寿に向かって上がっていくそう。渋谷はまさに、谷地にあるわけです。(158ページより)

道玄坂と宮益御嶽神社が見どころ

金王八幡から駅を挟んで西に位置する道玄坂も、渋谷を代表するスポット。であるにもかかわらず、道玄坂上交番前交差点に、坂の名前の由来を刻んだ碑が立っていることを知っている人は決して多くないかもしれません。

碑文によると、「道玄坂」の名は戦国時代の武将・北条氏綱が大永4年(1524)、この地に侵攻して渋谷氏を滅ぼした後、その一族の大和田道玄が坂の脇に庵を立てたことに由来するという。徳川家康の家臣だった内藤清成が著した『天正日記』にも、道玄がそうした由緒書を家康に出していると記している。しかし、『天正日記』は信ぴょう性が極めて疑わしい史料であるため、眉に唾をつけて聞く必要があるだろう。(162ページより)

一方、『江戸名所図会』には、大和田道玄は鎌倉時代初期の人で、源頼朝の御家人だった和田義盛の一族だったと記されているそうです。

義盛は建暦3年(1213)、鎌倉幕府に反乱を起こして敗れ、和田氏は滅亡。その際に道玄は鎌倉から落ちのび、以降はこの坂に潜んで山賊として名を馳せた――。そのため、道玄坂と呼ばれるようになったのだと。『天正日記』とはまったく異なるエピソードですが、こちらも確証はないようです。

渋谷の隠れた名所としてもうひとつ挙げられているのが、駅から徒歩2分ほどの場所にある宮益御嶽神社。社殿前には狛犬の代わりに青銅製の山犬の像があるそうですが、山犬はニホンオオカミのこと。

荒川上流域に広がる秩父山地は、明治末期に絶滅したとされるニホンオオカミの生息地だった。一帯には、「お犬様」の名称でオオカミを祀る神社が、多くある。江戸時代に入ると、オオカミ信仰は疫病退散の願いと重なって関東甲信地方の平野部にまで広がったという。(164ページより)

宮益御嶽神社は、そんなオオカミ信仰の名残を都心に伝える貴重な場所なのです。(162ページより)

本書を読むと、ふだんなにげなく通り過ぎている山手線内の各駅に、それぞれのストーリーがあることがはっきりとわかります。“地元”を再認識するためにも、手にとってみてはいかがでしょうか?

Source: 鉄人社

メディアジーン lifehacker
2025年8月1日 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

メディアジーン

  • シェア
  • ポスト
  • ブックマーク