「ふつう」がわからなくても、生きられることを伝えられる物語

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  • ガラスの海を渡る舟
  • イデオロギーの崇高な対象
  • 女たちの太平洋戦争

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「ふつう」がわからなくても、生きられることを伝えられる物語

[レビュアー] 勅使川原真衣(組織開発専門家)

勅使川原真衣さん(組織開発専門家)のポケットに3冊

〈1〉『ガラスの海を渡る舟』寺地はるな著(PHP文芸文庫、902円)〈2〉『イデオロギーの崇高な対象』スラヴォイ・ジジェク著/鈴木晶訳(河出文庫、1650円)〈3〉『女たちの太平洋戦争』朝日新聞社編(朝日文庫、1199円)

 「これをやって何の意味があるんだろう?」「いつか報われるのだろうか?」そんなことが頭をもたげることがある。この宙(ちゅう)ぶらりん感は特に、自分とは異質な者との対比で浮彫りになることがある。『ガラスの海を渡る舟』はいわゆる発達障害のある兄と、何でもそつなくこなすが尖(とが)りのない妹とが営むガラス工房の物語である。「ふつう」とは何かなんぞわからぬまま、混(こん)沌(とん)と生きる。まるで大海原に放りだされているかのごとく。

 『イデオロギーの崇高な対象』は学生時代に挑戦した(挫折した)という人もいるかもしれない。もとい、私もそうであるが、観念論や経済学、心理学、分析哲学、はたまたキリスト教神学まで入り組む本書。その途方もない広範さが、これまた大海原に放り出されたかの心細さがあったと記憶している。しかし齢(よわい)四十を過ぎてなるほど、思想というのは他の思想家や哲学者を媒介して、反(はん)芻(すう)、反復を重ねることで成立するのだと。この出会い方でいいのだ、と。

 ただし、反芻しながら日々を泳いだらいい、と言っていられない事象もある。戦争だ。『女たちの太平洋戦争』は、全国紙へ投稿された女性たちの生々しい体験記集。反芻を重ねてやっと生きるような私たちが、一瞬で奪える人命などあるものか。

 反芻は生を肯定する。同時に、繰り返してはならない反復が、たしかにある。=寄稿=

読売新聞
2025年8月8日 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

読売新聞

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