顔も歯も手もない…身元不明の死体の発見から始まるミステリ 作家・今村昌弘が「誰かと語り合いたい」と思った一冊『失われた貌』

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失われた貌

『失われた貌』

著者
櫻田 智也 [著]
出版社
新潮社
ジャンル
文学/日本文学、小説・物語
ISBN
9784103564119
発売日
2025/08/20
価格
1,980円(税込)

書籍情報:JPO出版情報登録センター
※書籍情報の無断転載を禁じます

櫻田智也だから書けた警察ミステリ

[レビュアー] 今村昌弘(作家)

今村昌弘・評「櫻田智也だから書けた警察ミステリ」

『サーチライトと誘蛾灯』『蟬かえる』など、虫好きの主人公、魞沢泉シリーズで高い評価を受けた櫻田智也がノンシリーズの長編を出す。それだけでもミステリ読者として興奮するのに、その作風がこれまでの素人探偵による連作短編とはまったく異なる警察ものだというのだから、期待が高まるのも無理からぬことだろう。この作品を一言で表すのなら、熟成の進んだウイスキーのような、奥深い味わいのミステリである。単なる謎解き、単なる警察小説、あるいは人間ドラマではなく、いくつものタイミングで豊かに表情を変える櫻田ミステリの新境地だ。

 物語は、山奥の谷底で男性の死体が見つかったことから始まる。死体は他殺であるのみならず、顔を潰され、歯を抜かれ、手首から先を切り落とされるという、徹底して身元を隠蔽しようとした痕跡があった。そして事件報道後、所轄署の生活安全課を一人の小学生が訪れ、「死体はぼくのお父さんじゃないんですか?」と質してくる。彼の父は十年前に行方不明となり、すでに失踪宣告を受けていたのだ――。

 冒頭からミステリ好きの心を搔き立てる“顔のない死体”の登場である。『失われた貌』のタイトルとカバーデザインを見ただけで琴線にふれる人もきっと多いはずだ。しかしこの死体が登場した際、私は内心で首をひねった。科学捜査技術の発達した現代の街でそれを登場させたところで、どうやって謎を維持するのだろう。探偵の論理のみが頼りとされるクローズド・サークルの中ならいざ知らず、警察の捜査が及ぶ場所で“顔のない死体”を出すメリットがどれほどあるのかと思ったのである。作中ではやはり、血液型や足紋などから死体の身元は早々にして割れる。だからこそ、犯人はなぜここまで手間をかけて死体を損壊させたのかという新たな謎が、物語の背後で不気味な存在感を放つこととなる。

 顔のない死体の発見と前後して、大小さまざまな事件が起きる。不審者による児童への声かけ事案、顔のない死体とは別の変死体が見つかった部屋の住人の行方不明案件、卑劣な脅迫の痕跡……。主人公である捜査係長・日野雪彦はそれぞれに関わってゆくのだが、その捜査手法はいたずらにエンタメに傾くことなく、基本に忠実で一見すると地味ですらある。それでいて複数の事件が絡み合い、増える事件関係者たちへの聞きこみを中心としたストーリーを展開させることは、多くのミステリ小説家にとってどう見所を作ったものかと頭を抱える難題だ。ここをクリアできないと、どんなに驚きのクライマックスが控えていても、そこにたどり着くまでに読者の根気が尽きかねない。だがご安心を。本作ではこの点にこそ櫻田智也の手腕が存分に発揮されており、読者の思考を巧みに整理しながら決して飽きさせることはない。そしてささいな描写が、後になって驚きの真相の引き金となって読者の額に突き付けられる。ぜひ「あそこがいい」「いや、あのフックもうまかった」と誰かと感想を語り合いたいのだけれど、しばらくは皆さんの手元にこの本が行き渡るのを待つしかない。

 また、この作品は警察小説としても独特の骨太さを備えている。合同捜査をめぐる他署との主導権の綱引き、因縁の過去を持つ同僚、なぜか口の重い事件関係者、激務によって歯がゆい距離感の空いた家族――。日野を悩ませる登場人物たちは、決して事件解決へのハードルの役割のみで用意されるのではない。なにかに真剣に向き合い、だからこそ清廉なだけではいられず、互いに簡単に通じ合えず反目することもある。そんな単なるキャラクターを超えた生々しい人間の描き方は、作者がこれまで丹念に積み上げてきた経験の賜物だろう。時にコミカルな掛け合いを、時に痛切な吐露を交えながら進む捜査は、つい論理と証拠に囚われがちな私に、事件とは人の営みと切り離せないものなのだと教えてくれる。読み終えた時、誰の頭にも必ずお気に入りの登場人物が浮かんでいるはずだ。私のお気に入りは日野が聞きこみに訪れたバーのマスター。客について話すのを愛想なく拒むくせに、ある来店者についてはやけに素直に口を開く。そのわけを尋ねると、「俺が義理立てるのは客に対してだけさ。その人は、なにも注文しなかった」。なかなか憎い人物ではないか。

 すべての謎が解かれた後、一人の人物に向けて日野が言葉を告げる。事件が解決した後ではなく、あくまで謎が解かれた後というのが肝だ。そしてその言葉は主人公がミステリにおける探偵ではなく、警察官だからこそ口にできた言葉であろうと思う。ぜひ、読者の皆さんの目で確認していただきたい。

 とにかく、櫻田智也ならではの警察ミステリを堪能できた一冊であった。

新潮社 波
2025年9月号 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

新潮社

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