【書方箋 この本、効キマス】ブラッドランド(上・下) ティモシー・スナイダー 著

レビュー

  • シェア
  • ポスト
  • ブックマーク

ブラッドランド 上

『ブラッドランド 上』

著者
ティモシー・スナイダー [著]/布施 由紀子 [訳]
出版社
筑摩書房
ジャンル
歴史・地理/外国歴史
ISBN
9784480511447
発売日
2022/11/14
価格
1,760円(税込)

書籍情報:JPO出版情報登録センター
※書籍情報の無断転載を禁じます

【書方箋 この本、効キマス】ブラッドランド(上・下) ティモシー・スナイダー 著

[レビュアー] 濱口桂一郎(JIL-PT労働政策研究所長)

流血地帯で何があったか

 1933~45年までの10年余の間に、スターリンのソ連とヒトラーのドイツに挟まれた流血地帯――ウクライナ、ベラルーシ、ポーランドおよびバルト三国――では1400万人が殺害された。ただしこの数字には、独ソ戦で戦死した膨大な兵士たちは含まれない。20世紀でもっとも凄惨と言われる独ソ戦の傍らで、戦闘行為としてではなく、階級や民族といったあるカテゴリーに属する人びとを、そのことを理由として、殺すために殺した数を積み上げると1400万人になるのだ。

 もちろんその一部は我われにホロコーストやスターリンの大テロルとして知られている。だが本書を読むと、我われの知識がいかに局部的であったかを思い知らされる。ホロコーストというと、アウシュビッツ収容所のガス室が思い起こされるが、それはそのうちもっとも「近代的」な氷山の一角に過ぎない。アウシュビッツのガス室が嘘だというデマが繰り返されるのは、みんなそれしか知らないからだ。

 だが、東欧のユダヤ人の圧倒的大部分は収容所でガスで殺されたのではなく、各集落で裸に剥かれ、穴の上で銃殺され、そのまま埋められたのだ。その多くは戦後ソ連領となったベラルーシとウクライナであり、膨大な死者はソ連人としてカウントされてきた。偉大な大祖国戦争の語りに、米帝の手先のユダヤ人の悲劇はそぐわないからだ。

 スターリンの大テロルというと、ジノヴィエフをはじめとする見せしめ裁判や軍人の粛清が思い起こされるが、それはそのうちもっともエリート層の氷山の一角に過ぎない。クラーク(富農)というでっち上げの階級に属することを理由に、多くの真面目な農民たちが収容所に送られ銃殺されたのだ。だがそれはまだ専門家の間ではそれなりに知られている。階級の敵の撲滅はマルクス・レーニン主義の真骨頂であり、栄光の歴史として語られたからだ。

 本書で初めて知ったのは、独ソ戦が始まる前に、ソ連当局がポーランド人をその民族的帰属を理由に、組織的に大量虐殺していたことだ。スターリンはポーランドと日本による挟み撃ちを恐れていたからだという。ジェノサイドはナチスの登録商標ではない。それより先にスターリンがポーランド人相手に大々的に行っていたにもかかわらず、戦後長らくタブー視されてきた。ポーランドの軍人が2万人以上銃殺されたカティンの森事件はその氷山の一角に過ぎない。

 本書を読み進むのはとてもつらい。ページをめくるごとにこれでもかこれでもかと殺害の記述が続く。そのなかにときどき、殺される直前の少女のあどけない言葉が挟まれる。

 著者スナイダーは、ソ連崩壊以後、この流血地帯の文書館を渉猟し、入手可能になった膨大な殺人の記録を拾い集めて、本書に結実させた。ああ、ホロコーストね、大テロルね、知ってるよ、と済ませずに、是非全巻読み通してほしい。プーチンのロシアが、自国の虐殺行為に言及することを刑罰で禁止する今日だからこそ、それが必要だ。

(ティモシー・スナイダー 著、布施 由紀子 訳、ちくま学芸文庫 刊、税込1760円(上下巻ともに))

選者:JIL―PT労働政策研究所長 濱口 桂一郎

労働新聞
令和7年9月15日第3513号7面 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

労働新聞社

  • シェア
  • ポスト
  • ブックマーク