【解説】これまで誰も描き得なかった最後の名勝負が見えてくる――『さらば武蔵』稲葉稔【文庫巻末解説:秋山香乃】

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さらば武蔵

『さらば武蔵』

著者
稲葉 稔 [著]
出版社
KADOKAWA
ジャンル
文学/日本文学、小説・物語
ISBN
9784041151396
発売日
2024/09/24
価格
1,034円(税込)

書籍情報:JPO出版情報登録センター
※書籍情報の無断転載を禁じます

【解説】これまで誰も描き得なかった最後の名勝負が見えてくる――『さらば武蔵』稲葉稔【文庫巻末解説:秋山香乃】

[レビュアー] カドブン

稲葉 稔『さらば武蔵』(角川文庫)の巻末に収録された「解説」を特別公開!

【解説】これまで誰も描き得なかった最後の名勝負が見えてくる――『さらば武蔵...
【解説】これまで誰も描き得なかった最後の名勝負が見えてくる――『さらば武蔵…

■ 稲葉 稔『さらば武蔵』文庫巻末解説

解説
秋山 香乃(作家)  

 宮本武蔵といえば、四白眼の持ち主です。四白眼の人は珍しく、頭脳明晰で傑出した才を持つものの、それだけに孤高を持する人が多いのだとか。まさに一般的な武蔵のイメージそのものです。
 六十余度の生死を懸けた剣戟において、一度も負けたことがないという稀有な剣豪が武蔵です。それだけに、剣に生き、道を究めるためにはどんな犠牲も厭わない、偏ったところのある鬼才。こういう印象が強く、これまでも多くの作家によってそんなふうに捉えられがちでした。
 ところが、本作で描かれた武蔵は、一味も二味も違います。
 武蔵は五十歳のとき、「兵法至極を得た」と信じ、『円明三十五ヶ条』を記しました。最初の命のやり取りが十三歳のときですから、四十年弱の長きにわたり「血を見」続けて、到達した境地があったのでしょう。いったんは道を究めたと思ったようです。
 稲葉氏は、これに異を唱えたのです。
 物語は、この四年後。寛永十五年、武蔵五十四歳のときから始まります。老境に差し掛かった剣聖が、島原の乱に参戦し、生き方を揺るがす衝撃的な光景を目の当たりにします。そして、初めて「負けたのではないか」と思うのです。
 武蔵の人生のクライマックスは、もっと前にあったと考える人が多いのではないでしょうか。吉岡一門との戦いや巌流島の決闘のような、歴史に残る名勝負は晩年の武蔵にはありません。このため、平凡な私などは、武蔵の老後は余生くらいにしか捉えていなかったのですから、目から鱗の書き出しです。
 しかし稲葉氏は、これ以降の死ぬまでの七年間にこそ、この男の人生の山場を見出し、連戦連勝の男が「負けた」と感じることによって、武蔵の新たなステージをスタートさせるのです。
 もちろん、物理的に負けたわけではありません。しかし、「喜んで殺され死んでいく」弱者であるはずの「百姓や女子供たち」の「心」に、敗北感を覚えます。
 それまでの武蔵は「稚拙」でした。なぜなら、武蔵が「至極を得た」のは「あくまでも剣の道における術理論」──形にすぎなかったからです。武蔵は、『円明三十五ヶ条』に足りなかったものを、島原の乱で「微笑さえ浮か」べて死んでいった弱者の中に見たのです。
 このときから武蔵は「心」というものを強く意識し始めます。そして、「おのれの生き方をあらためて考えるときが来たのではないか」と思うようになります。
「心」はこの物語のキーワードの一つです。最初に読むときは、エンターテインメントとしてのストーリーを楽しんでいただきたいのですが、ぜひとも再読して、二度目には「心」という文字が出てきた前後をじっくりと読み込んでみてください。武蔵が命を削って挑んだ、これまで誰も描き得なかった最後の名勝負が見えてくるはずです。
 挑んだものは人ではありません。それはやはり、「心」なのです。
 本書は武蔵が「後生に残る畢生の書」である『五輪書』を生み出す物語です。『五輪書』は今なお日本で愛読者が多いだけでなく、世界中で読まれています。
 それは奇しくも作家の抱く最大級の夢でもあります。自分の著書が後世に残り、世界中の人々から読まれたら、これほどの幸せはありません。しかしまた、それがどれほど至難の業か、作家であればだれでも知っています。どれほど人気を博した著作でも、時の流れと共に消えていきます。それでも残るのは、ノーベル文学賞をとるより難しいのではないでしょうか。
 武蔵の『五輪書』は、今でも貪るように読む人がいます。なぜなら、どんな時代でも、どこの国の人にも、そしてどんな職業の人にも通じる普遍の教えが、武蔵「自身の言葉をもって」記されているからです。人はそこに前途への希望を見出すのです。
 稲葉氏はこの普遍とは如何という問いに、真正面からまさに全身全霊、主人公の武蔵に憑依する勢いで挑んだのだと思います。文章から懊悩と情熱が立ち上がってくるようです。
 物語の中で、武蔵も懊悩します。そして、終焉の地となった熊本で「心の友」と「まことによき方」を得ます。一人は藩主で、一人は僧侶です。そこで各々との禅問答のような会話が繰り広げられます。それはまさに真剣勝負さながら。武蔵は「これまで生きてきた道のなかで学び、教わり、会得したすべてのことを」かけて、答え、問うのです。
 この問答が武蔵の懊悩を助け、また、さらに新たな懊悩を生みます。そうして武蔵の中に眠る考えが輪郭を持ち、この世の万物に通じる普遍性が「おのれで知るもの」となるのです。
 つまり、武蔵の最後の戦いは孤高なだけでは成し得ず、人との温かな縁の中、「鬼のような執念の作業」を行うことで実を結ぶのです。
 稲葉氏が探り出した、この晩年の知られざる新たな武蔵像でなければ結実しない、この男の真の偉業を見せられたとき、読者は大きな感動に胸を熱くすることでしょう。
 本書には、稲葉氏「自身の言葉をもって」次のように書かれています。
「人は百人百様。先達の教えがいかに正しかろうが、間違っていようが、そこに新しき工夫が必要になるのではないか」
 これもまた、すべてのことに通じる教えではないでしょうか。稲葉氏も本書に、武蔵の『五輪書』同様、普遍を打ち出しているのです。敬愛する作家の教えとして、私は自分の小説を生み出すときは、これからは「新しき工夫」を座右の銘として襟を正すつもりです。
 ところで、本書には私の大好きな清という女中が出てきます。この清と「憐れみ深い」武蔵とのやりとりは、胸がじんとなります。何度も二人の会話に涙が滲み、心が癒されました。とても重要なキャラで、「先生も弱い心をお持ちなのだ」と気付く清の目からでなければ描けぬ武蔵像が、物語に温かくも深い色を添えています。
 武蔵は清に語ります。
「人は後悔しながら生きるものだ」
 武蔵が言うからこそ深い意味を持つ、作中の大好きな言葉です。後悔してもよいのだと、何か救われた気がするのです。
 清との場面はどれも良いのですが、ことにラスト三行を読んだ後は、感動でしばらく本を閉じることができませんでした。
 読み終えるころには、稲葉氏の故郷でもある、本書で描かれた素朴で美しい熊本が好きになります。武蔵の命日に文庫を携え、ひとり熊本を歩いてみるつもりです。

KADOKAWA カドブン
2025年09月06日 公開 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

KADOKAWA

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