無駄を削ぎ落した硬質な文体を味わう。情景が浮かび、目が喜ぶ、自伝的メモワール

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無駄を削ぎ落した硬質な文体を味わう。情景が浮かび、目が喜ぶ、自伝的メモワール

[レビュアー] 杉江松恋(書評家)

 音楽が聞こえる一冊だ。

 片岡義男が小説を書き始めたのは一九七四年のことだが、一九六〇年からフリーライターとして活動していた。『珈琲にドーナツ盤』は、小説家前史を連作で綴ったメモワールである。

 自伝小説とは言うものの、具体的に何をしたという記録はほとんど記されず、語り手が誰かと交わした会話や出来事が描かれる。その背後で流れていた曲名への言及があり、章末にはレコードジャケットが掲げられる。音楽によって時代の空気を伝える狙いだろう。

 写実的な文章は、その場の情景を見事に浮かび上がらせる。「今日という日がすべてひっくるめられた一曲とは」は、女性と会った後の〈僕〉が、服を着てホテルを先に出るという内容だ。「パンツそして靴下を履いた」という一文から淡々と動作を綴っていくだけなのに、文章に引き込まれる。喫茶店で編集者二人が議論を始めたため、頭の半分でそれを聞き、残りの半分は店内で再生されている曲のコードを追う、という「女が鳴らす口笛は恋の終わりの東京ブルース」もいい。

 やはり小説は文章を味わうものだ。読書中、目が喜んでいるのがわかった。

 無駄を削ぎ落した硬質な文体という意味では同書はハードボイルドと呼ばれる小説群に極めて近い。レイモンド・チャンドラー『長い別れ』はそのハードボイルドの代表的な作品で、創元推理文庫版は田口俊樹が訳を手がけている。同作の舞台であるアイドル・ヴァレーという高級住宅地の情景が素晴らしい。住人たちの暗鬱な心理が自然描写に反映されているのだ。ミステリーというジャンルに関心がない方も、この文章はぜひ味わっていただきたい。

『珈琲にドーナツ盤』に曲の話題が挿入されるということで連想したのが、台湾の作家・張國立の『炒飯狙撃手』(ハーパーBOOKS)である。主人公は狙撃の名手なのだが、彼を鍛えた教官が、歴史の逸話を口癖のように語る人物として描かれるのがおもしろい。故事来歴を引用するという、日本では廃れた作法を駆使する小説として、懐かしく感じながら読んだ。

新潮社 週刊新潮
2025年10月30日 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

新潮社

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