【解説】キャラクターの動きによってもたらされる求心力――『煙霞』黒川博行【文庫巻末解説:大矢博子】

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煙霞

『煙霞』

著者
黒川 博行 [著]
出版社
KADOKAWA
ジャンル
文学/日本文学、小説・物語
ISBN
9784041167113
発売日
2025/10/24
価格
1,078円(税込)

書籍情報:JPO出版情報登録センター
※書籍情報の無断転載を禁じます

【解説】キャラクターの動きによってもたらされる求心力――『煙霞』黒川博行【文庫巻末解説:大矢博子】

[レビュアー] 大矢博子(書評家)

黒川博行『煙霞』(角川文庫)の刊行を記念して、巻末に収録された「解説」を特別公開!

【解説】キャラクターの動きによってもたらされる求心力――『煙霞』黒川博行【...
【解説】キャラクターの動きによってもたらされる求心力――『煙霞』黒川博行【…

■ 黒川博行『煙霞』文庫巻末解説

解説
大矢 博子(書評家)

 黒川博行、面白いじゃないか──と思ったのは一九九一年だった。
 誤解のないように言っておくが、もちろんそれまでも面白かったのである。デビューは一九八四年の『二度のお別れ』(角川文庫・他)。銀行強盗に端を発した誘拐事件に大阪府警の捜査一課が挑む警察小説で、のちにシリーズとなる〈黒マメ〉コンビの第一作だ。それ以降、精力的に刊行された犯罪小説や警察小説にはどれもたっぷりと楽しませてもらったが、「あ、これだ」と思ったのが一九九一年に刊行された『てとろどときしん 大阪府警・捜査一課事件報告書』(角川文庫・他)と『大博打』(新潮文庫・他)の二作だったのである。
『てとろどときしん 大阪府警・捜査一課事件報告書』は著者がデビュー以来書き続けてきた大阪府警捜査一課の短編集だ。〈黒マメ〉コンビを中心に府警の刑事たちが事件を追う話が六編収録されている。一九八七年から九一年にかけて雑誌掲載された初期作だ。これらは短編であるがゆえに、黒川博行作品の大きな魅力のひとつが「掛け合い」にあることがはっきりと現れた。コンビ芸と言ってもいい。収録作はそのほとんどが刑事コンビの会話で進行していく。軽やかな大阪弁の掛け合いが、ワンアイディアで成立する短編の、時には目眩ましになり時には潤滑油になり時には推進力になる。会話で話を進めることの巧さがこの短編集には現れていたのだ。
 もう一冊の『大博打』は長編の誘拐ミステリである。会社社長の父親が誘拐され、身代金として用意された時価二十億円の金塊を巡る駆け引きを中心に物語が進む。二転三転する展開、犯人の動機や金塊回収の方法などミステリ的な構造もしっかりした良質なミステリだが、私が本書で瞠目したのはキャラクターだった。
 誘拐されても平気で犯人と渡り合う父。父の命より金が大事な息子。刑事たちから犯人に至るまで、それぞれ個性が際立っていた。みな気取らず、がめつく、しぶとい。そして、個人単体の魅力よりも、人と人が絡むことによって起きる化学反応こそが物語を先へ先へと進めていくことに気づかされたのだ。ここでそんな行動をとるのかという驚き、ここをそうやって凌ぐのかという高揚。彼らがこれからどうなるのかとぐいぐい読まされたものである。
 コンビ芸の快さとキャラクターの動きによってもたらされる求心力──それまでも楽しく読んでいた黒川作品だったが、一九九一年のこの二作を読むに至り、黒川博行の面白さの根源がどこにあるのか、ようやく気づいたという次第だ。
 黒川博行のこのふたつの強みは、一九九七年の『疫病神』(角川文庫)で一気にブレイクする。初期の到達点にして現在に至るジャンピングボードたる一冊と言えるだろう。「疫病神」シリーズの第六作『破門』(角川文庫)で、黒川博行は第一五一回直木賞を受賞する。

 前振りが長くなったが、そのふたつの強みが十全に発揮されているノンシリーズ作が、この『煙霞』だ。二〇〇五年から二〇〇六年にかけて新聞連載され、二〇〇九年に文藝春秋社から単行本が刊行された。その後文春文庫に入り、これが二度目の文庫化となる。
 私立晴峰女子高校で常勤の美術講師をしている熊谷に、同じく常勤の体育講師・小山田がある計画を持ちかけた。常勤講師の待遇の悪さを嘆き、理事長の酒井を拉致して直談判しようというのだ。厄介ごとには近寄りたくない熊谷だったが、同じく立場の弱い音楽教師の正木菜穂子にも背中を押され、協力することに。
 三人は、ヨーロッパへ視察旅行に向かうため家を出た酒井とその愛人を首尾よく捕まえた。だがそこから事態はおかしな方に回り出す。実はこの一件の背後で糸を引く黒幕の狙いは理事長が持っている隠し財産──時価二億円を超す金塊を奪うことだったのだ。
 金塊は何度もその場所を移され、複数のコンビがそれを追いかける。騙したり騙されたり、あるいは運に味方されたり裏切られたり。はたして金塊を手にするのは誰なのか。熊谷と菜穂子の「一般人の教師コンビ」が裏社会の面々と渡り合う──。
 というのが本書の骨子である。当時、少子化による経営難や乱脈経営、不祥事隠しなど私立学校の在り方が社会問題になり始めた時期だ。黒川博行は専業作家になる前に高校の美術教師をしていた時期があったが、学校を舞台にした作品はこれが初めてだった。
 そのあたりの背景の情報の濃さや取材の深さはさすがだが、物語の軸は教育問題でも学校経営でもなく「金塊を奪う」という一点のみのコン・ゲームである。これが実にスリリングなのだ。
 最初にある人物が金塊を奪った手際も見事だが、そこからの動きはもう、読み出したら止められない。あるはずの場所になかったり、他者の隙を突いて動かしたり。中には、「この人たち、その車に金塊が積まれていることを知らずに乗り回しているのでは?」という状況もあって笑ってしまった。敵がその車を懸命に追っているのに、運転手側は面倒だから乗り捨てて行こうかなどと考える。思わず「ちょっと待て。一旦調べろ」と何度つっこみたくなったことか。まあ、そうはできない理由はあるのだけれど。
 もうひとつ、忘れてはならないのが登場人物の動きだ。主人公の熊谷はこの中でもっとも普通の一般人と言っていい。だが菜穂子が危険を顧みずぐいぐい行くタイプで、ふたりはどんどん深みにハマっていく。熊谷は引っ張り回されているだけなのだが、それでも講師という仕事ならではの人脈で情報を集めたり、踏むべき地雷をきちんと踏んで話を進めたりと、「疫病神」シリーズの二宮を彷彿とさせる面もある。会話の楽しさは言うに及ばず、著者お得意のコンビ芸だ。
 これは敵方にしても同じである。酒井よりもその愛人のキャラがいい。また、敵も二人組なのだが、これがまた冷徹な頭脳派と脳筋武闘派という絵に描いたようなコンビなのである。どの組み合わせでも笑いがとれる。いや、笑い事ではないんだが。おまけに敵の中に騙し騙されがある。読みながら、いったい今金塊はどこにあるのか、誰が味方で誰が敵で誰が誰を裏切っているのか、次々と変わる局面に夢中になること請け合いだ。
 最終的に金塊の在処は判明し、「そう来たか!」と膝を打つことになるのだが──誤解を恐れずに言えば、真犯人は誰だとか謎の真相はとか、そんなことはどうでもいい。いや、どうでもよくはないが、読んでいる最中はどうでもよくなるのだ。そんなことより、このふたりは、この人たちは、いったいこれからどうなるのか。ただそれだけが気になってページをめくるのである。まさにキャラクターの動きによってもたらされる求心力だ。
 そして読みながらふと気づくのは、これが「犯罪喜劇」であるということだ。
 ただ会話がコミカルだという意味ではない。当事者の彼らは生きるか死ぬかの中を搔い潜って金塊を追うわけで、必死である。一生懸命である。だが傍から見ると喜劇なのだ。どこか物悲しさすら感じるような、ペーソスのある喜劇なのだ。
 これこそが黒川博行の三つ目の魅力かもしれない。金塊に踊らされる者も、やむにやまれず悪事に手を染める者も、巻き込まれた者も、どこか悲しくて、どこか滑稽で──つまるところ、これが人間なのだ。黒川博行は犯罪を通して、そこで人間が繰り広げる滑稽な輪舞を描いているのではないか。
 タイトルの「煙霞」とは、もやや霞がかかって景色がぼうっと霞んで見える状況のことで、風光明媚な景色や風流な自然を表すときに使うことが多い。だが本書の場合は、むしろぼうっと霞んで消えてしまうものという意味で受け取るべきだろう。夢も金塊も悪党との駆け引きも、終わってみれば一時の煙や霞に過ぎない。それもまた、喜劇だ。
 魅力たっぷりの会話芸やキャラクター、息をもつかせぬノンストップの構成、そしておかしみとペーソスに溢れた展開──新聞連載から二十年経っても色褪せない、黒川博行の強みがたっぷり詰まった一冊である。

KADOKAWA カドブン
2025年11月04日 公開 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

KADOKAWA

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