「もしあの時転院していれば…」夫を原発不明がんで亡くした女性の“悔恨”に深い衝撃 「見えない死神」と闘った160日間の記録

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見えない死神 原発不明がん、百六十日の記録

『見えない死神 原発不明がん、百六十日の記録』

著者
東 えりか [著]
出版社
集英社
ジャンル
文学/日本文学、評論、随筆、その他
ISBN
9784087817683
発売日
2025/10/24
価格
2,200円(税込)

書籍情報:JPO出版情報登録センター
※書籍情報の無断転載を禁じます

夫の「原発不明がん」と闘う執念と愛情の記録

[レビュアー] 出口治明(立命館アジア太平洋大学名誉教授・学長特命補佐)


※画像はイメージ

 東えりかによる本書は、原発不明がんと闘った夫・保雄の160日間の闘病記録である。保雄は腹痛をきっかけに2022年10月8日に入院したが、原因が判明せず病状は悪化。がん細胞が発見されたのは12月末、そして翌年3月17日に永眠した。その苦難の日々を、東が詳細かつ率直に綴っている。この記録を通して、命の重みと医療の現実、家族の葛藤と愛情の深さを痛感せざるを得ない。

 まず注目すべきは、医療現場における診断の難しさと、それが患者と家族にもたらす影響だ。主治医のT医師はSMA症候群(上腸間膜動脈症候群)の可能性には否定的で、原因の特定を急ぐため検査結果を待つように告げる。東はそれを信じて転院を遅らせたが、その後の状況悪化を振り返り、「もしあの時転院していれば病変が早期に発見され、延命あるいは救命の可能性があったのではないか」という旨の悔恨が語られる。この部分は、医療の判断が患者の命を左右する重大さを示しており、読者に深い衝撃を与える。

 さらに、新型コロナウイルスの第8波と重なった時期の入院であった。感染症流行下での医療現場の過酷さや制限、患者や家族の不安を記録しており、当時の社会的状況も背景として描かれている。そうした外的要因も含め、病気との闘いは単なる個人の問題を超えた複雑さを帯びていることが伝わる。

 保雄は1月に駒込病院へ転院し、腫瘍内科の下山医師のセカンドオピニオンを受ける。この転院後の短期間、容体は一時的に安定し、顔色や声にも明るさが戻る。しかし、2月には抗がん剤治療の中止が告げられ、同月28日に退院。そこからは「穏やかな日々」として、音楽を楽しみ、訪れる人々と時間を過ごしながら、最後の晩餐を迎える。3月17日早朝、静かな最期。悲しくてつらく、だけど幸せだった。

 印象深いのは東がT医師に対し、夫の死から2か月後に手書きの長文の手紙を送り、返信メールを受けてわだかまりが解消したというエピソードである。このやりとりは、医療者と患者家族の間に生まれる心の葛藤を象徴し、命に関わる問題がもたらす精神的な負担を映し出す。

 本書は単なる闘病記録を超え、命の尊厳や医療の限界、そして家族の絆の尊さを鋭く問いかける。著者の執念と愛情が込められたこの記録は、多くの読者に「生きること」と「死と向き合うこと」の意味を深く考えさせる。痛みと苦しみの中にも希望の光を探ろうとする筆致は、読む者の胸に重く、そして温かく響く。

新潮社 週刊新潮
2025年11月13日号 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

新潮社

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