「熊」に襲われ顔面を噛まれたフランスの若い女性人類学者…「人格の半分が熊になった」には“特有の力”が

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熊になったわたし 人類学者、シベリアで世界の狭間に生きる

『熊になったわたし 人類学者、シベリアで世界の狭間に生きる』

著者
ナスターシャ・マルタン [著]/高野 優 [訳]/大石 侑香 [解説]
出版社
紀伊國屋書店
ジャンル
文学/外国文学、その他
ISBN
9784314012119
発売日
2025/08/01
価格
2,200円(税込)

書籍情報:JPO出版情報登録センター
※書籍情報の無断転載を禁じます

熊に襲われた女性人類学者が彷徨う人間と動物の「境界」

[レビュアー] 角幡唯介(探検家・ノンフィクション作家)


※画像はイメージ

 フランスの若い女性人類学者がロシア・カムチャツカ半島の山中で熊に襲われ、顔面を噛まれて人生が変わった。どのように変わったのかというと、人格の半分が熊になったというのだ。最初は言っていることがよくわからなかった。しかし彼女の言葉には特有の力がある。意識の深層に潜りこもうとする努力、世界の奥にひそむ真実を見つめようとする姿勢になみなみならぬものがあり、引きずりこまれるように読み進めた。

 人類学の世界では変容(メタモルフォーゼ)というらしい。事件の前から夢に熊がよくあらわれたというところをみると生来シャーマン的な体質の持ち主なのだろう。現代社会に生きてはいるが精神性は古(いにしえ)の狩猟民に近く、それゆえ彼女はそのはざまで苦しむことになる。パリの病院の医学者は彼女の言い分を合理的にしか解釈しようとしないが、カムチャツカの森に暮らすエヴェンの人たちは彼女におきた出来事をアニミズム的な世界観でやわらかく包みこんでくれるのだから。

 狩猟民の世界観や神話の本では、ヒトが熊になったり熊がヒトと変わらぬ生活をしていたりと、そんな話に満ちている。狩猟の世界では動物の世界に入りこみ、動物そのものになりきらないと獲物はうまく獲れないので、ヒトと動物の境界が失われて頻繁に変容がおきる。だけど自然から完全に分断された現代人には直観的にそれが理解できない。そこを彼女は独特のシャーマン的体質と、現代人としての生活の相克をつうじてうまくつなげてくれている。個人的にはかなりの文学的達成ではないかと思いながら読んだ。

 彼女におきた出来事は不幸のように思えるが、その観点がそもそもまちがっているのかもしれない。エヴェンの友人は、熊はあなたを殺したかったのではなく印をつけたかっただけだと言った。熊を排除と駆逐の対象としか見られなくなった日本人には意味不明だろうが、そんな今だからこそ読むべき作品だとも思う。

新潮社 週刊新潮
2025年11月27日 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

新潮社

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