『ちくま日本文学021 志賀直哉』
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クマは私に対し、又一層従順になつた
[レビュアー] 川本三郎(評論家)
名著には、印象的な一節がある。
そんな一節をテーマにあわせて書評家が紹介する『週刊新潮』の名物連載、「読書会の付箋(ふせん)」。
今回のテーマは「犬」です。選ばれた名著は…?
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市井の小市民が犬をペットとして広く飼うようになったのは昭和に入ってから。
明治四十二年東京生まれの作家大岡昇平は回想記『少年』のなかで子ども時代、犬を飼いたかったが「当時畜犬は今日のように普及していなかった」のであきらめたと書いている。
志賀直哉に「盲亀浮木」という作品がある。題名は百年に一度しか水面に浮上しない目の見えない亀が水面に出るとたまたま浮んでいた木の穴に頭を突っ込んだという、めったにないことを説いた故事から。
直哉自身を思わせる「私」の偶然の体験を描いた三つの短篇から成る。
そのうちのひとつ「クマ」は飼っていた犬の話。
昭和のはじめ、奈良に住んでいた「私」は知人から子犬を貰い受ける。
雑種の駄犬。当時、すでに日本犬やシェパード、エアデール・テリアなどの名犬が流行していた時代に飼うのはいささか恥しい。しかし、飼ってみると性格はいいし賢い。だんだん可愛く思うようになった。
やがて一家は東京に引越す。クマも連れてゆく。ところが奈良と勝手が違うらしく十日ほどでクマは町に出て迷子になった(当時は放し飼いが珍しくない)。
いくら探しても見つからない。ある日、用事で子どもたちを連れて神田に行く。バスに乗る。江戸川橋のあたりでふと窓の外を見るとなんとクマがいる。偶然の発見である。
その後「クマは私に対し、又一層従順になつた」。


























