凄惨な犯罪を聞かされた田山花袋が「それは特殊で深刻すぎて文学にならない」と語った逸話を思い出す…哲学者による初小説『木』

レビュー

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木

『木』

著者
鈴木祐丞 [著]
出版社
未知谷
ISBN
9784896427653
発売日
2025/10/02
価格
2,420円(税込)

この小説は「人間の生」――その複雑さと向き合うための勇気ある手段だ

[レビュアー] 乗代雄介(作家)

 哲学者の著者による初めての小説である。ゆるく繋がる「杉」と「橅」という二つの短編を収録し、巻末には著者自身による解説が付されている。本書はまずこの解説から読まれてもいいのではないかと私は思う。

 著者は、小説を「哲学の研究ではどうしてもつかみ取れない大切な何かを浮かび上がらせてくれるはずのもの」とする。「大切な何か」とは「実存の居場所」に関係するもので、解説では、それが何か、哲学がそれにどう迫ってきたのか、キェルケゴールやニーチェを取り上げて丁寧に説明される。その上で、説明が及ばないところに人間の生はあり、その複雑さと向き合うための手段が小説だったと言うのだ。

「橅」は、刑務所や拘置所で被収容者の徳性を教育し改心へ導く役割を担う教誨師が、一人の死刑囚と向き合うことで実存を見つめる物語だ。場所こそ東京拘置所に変えているが、死刑囚のモデルは附属池田小児童殺傷事件の宅間守である。参考文献を見るまでもなくそれに気付いた時、私は、柳田國男からある凄惨な犯罪記録について聞かされた田山花袋が、それは特殊で深刻すぎて文学にならないと答えた話を思い出した。その是非はともかく、ノンフィクションとして書くのとは別の勇気が小説に求められるのは間違いない。

 対話の中で、教誨師が「流れというものを無視して、私は踏み込みすぎただろうか」と自省する場面がある。勝手ながら、著者の声が重なったような気がして安心さえしたのだが、小説はそのまま執行までを粛々と描ききる。それが「実存の居場所」を揺るがすとしても、木のこぶのような捉えがたいものを生むとしても、むしろだからこそ、踏み込むことを恐れるべきではないのだろう。

 ただし、それを蛮勇にしないためには、一歩を踏み出す前の足場が必要だ。著者が先人の踏み固めた知を足場としたように、読者もまずは解説を一読してもらいたい。

新潮社 週刊新潮
2025年12月4日 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

新潮社

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