『ハラスのいた日々 増補版』
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「クン」と啼くこえがしたようでした
[レビュアー] 北村薫(作家)
名著には、印象的な一節がある。
そんな一節をテーマにあわせて書評家が紹介する『週刊新潮』の名物連載、「読書会の付箋(ふせん)」。
今回のテーマは「犬」です。選ばれた名著は…?
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小学生の頃、学習雑誌の四月号を開いたら、始まった連載漫画が、子象が親にはぐれる話でした。三月号まで待てば巡り合えるんだろうな――と思いました。
中野孝次の『ハラスのいた日々』では、夏のさかり、仔犬が、子のない夫婦のもとにやって来ます。ハラスとなづけられた彼は、二人にとってただの犬ではなくなります。
これは、命あるものが、共に生きることを描いた、忘れ難い本です。
中ほどにあるのが「生涯の一大事件」の章。もうじき十一歳。老いを見せ始めたハラスを連れ、夫婦は志賀高原の宿にきました。
よかれと思ったのですが、ハラスは、山になじめない様子です。何日かたった朝、ハラスの姿が見えなくなります。
「呼んだけどどこにもいないの」
そう聞いて、物もいわず外へ飛び出した私。〈そのとき私はどういうものか、ハラスはもう二度と戻ってこないのではないかという気持に圧倒されていました〉。乗って来た青いワゴンが出て行くのを見たハラスは、自分がおいていかれると思ったようなのです。妻は泣きました。
ハラスは帰らない。夜はマイナス十九度にもなりました。
はらわたを抜かれたような日々が過ぎた夜、真っ暗な二階に上がったそのときです。
外で一声かすかに「クン」と啼くこえがしたようでした。


























