蘊蓄、冗談、ネットミーム……数え切れない〈よしなし事〉が彩る饒舌文学

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サンクトペテルブルクの鍋

『サンクトペテルブルクの鍋』

著者
坂崎かおる [著]
出版社
小学館
ジャンル
文学/日本文学、小説・物語
ISBN
9784093867757
発売日
2025/12/17
価格
1,870円(税込)

書籍情報:JPO出版情報登録センター
※書籍情報の無断転載を禁じます

蘊蓄、冗談、ネットミーム……数え切れない〈よしなし事〉が彩る饒舌文学

[レビュアー] 乗代雄介(作家)

 十九世紀ロシア、鍋を囲むバレエ愛好家の男たち、煮えているのは人気ダンサーのトウシューズ。そんなところから物語は始まる。

 小説の語りというのは、情報を選別しながら進んでいく。言葉を用いる以上、語りの途中でふと無関係な出来事、説教くさい蘊蓄、くだらない冗談、みっともない言い訳、通じない地元ネタ、特定のカルチャーへの悪口、最近知ったネットミーム、読者への文句、最近のニュースなどの〈よしなし事〉が脳裏をよぎってしまうが、いちいち口にしていると本筋の話が進まないので、排除するのである。

 ボルダリングの壁一面に埋め込まれたホールドを思い浮かべてもらうといい。所狭しと並んでいるが、目的の地点まで辿りつくために必要なホールドは案外少ない。つまりはそれが本筋で、他に無闇に手をかける必要はないのだ。

 しかし本書は、あの数え切れない凹凸に似た〈よしなし事〉を全て残したような印象である。読み始めてすぐ、読者は十九世紀バレエの状況について蘊蓄を浴びることになる。続けて「あなたはバレエのことなどなにも知らない」と侮られ、うるさいバレエファン界隈に配慮しなければならない事情を愚痴られたあと、その苦労にも気付かないあなたは「ひどく無知で愚かで、生きていることが恥ずかしくなってきたのではないだろうか」と叩きつけられる。

 冒頭で物語の始まりについて書いたが、実はその場面が形を整えるまでは十ページほどを要する。始まったところで、舞台はロシアや(語り手の故郷である)高崎、東京、今と昔、書かれた舞台の内と外、現実とフィクションを交ぜながら進むのだが、本当に進んでいるのか。そもそも小説は進まなければいけないのか。

〈よしなし事〉は、壁一面のホールドのようにどこへでも読者を運ぶ。そして本書が饒舌に示しているように、小説全体をカラフルに彩る。

新潮社 週刊新潮
2026年1月22日 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

新潮社

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