『よき時を思う』
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宮本 輝『よき時を思う』を細谷正充さんが読む
[レビュアー] 細谷正充(文芸評論家)
幸福とは何かを知りたい人に、読んでほしい物語。
まるで物語の世界に揺蕩(たゆた)っているようだ。本書を読んでいて、いつの間にかそんな気持ちになった。心が優しい何かに包まれていくような作品である。
古い体質の残る会社で、経理部のチームリーダーをしている金井綾乃は、東小金井にある四合院(しごういん)造りの家の一棟で暮らしている。もともとは叔母夫婦が暮らしていたが、バンコクに行ったため、頼まれて住んでいるのである。この綾乃の視点で、まず彼女の日常が綴られていく。彼女の実家は、近江八幡市の武佐(むさ)町の近く。そこで暮らす九十歳になる祖母の徳子と、筆手紙でやり取りをするなど、綾乃にはどこか古風なところがある。読んでいると綾乃が、祖母からいろいろな薫陶を受けていることが分かってくる。また、徳子の一本筋の通った性格と生き方も見えてくる。
そんな徳子が、九十歳の記念に晩餐会を開くことにした。晩餐会の準備を手伝っているうちに綾乃は、さらに深く徳子の人生を知ることになるのだった。
本書の主人公は綾乃と徳子だが、金井家の他の家族についても随所で描かれていく。縁あって会社の社長になった綾乃の弟の晴明を始め、家族にだってそれぞれの人生がある。作者は波風の立つようなエピソードは極力抑えて、金井家の平凡で幸せな姿を表現していくのである。
その幸せが頂点に達するのが、晩餐会の場面だ。十六歳のときに短刀で自害しようとしたこともある徳子が、長き歳月を経てたどり着いた境地。なぜ彼女は晩餐会を開いたのか。その理由が語られたとき、幸せの形と人の心の美しさが露わになる。泣きたくなるほど温かな祝祭空間を、気持ちよく表現した作者に感謝するしかない。
さらに、四合院造りの家の持ち主である三沢兵馬(へいま)や、晩餐会の料理を担当した、エリゼ宮のスーシェフの玉木伸郎など、綾乃や徳子と関係のある人々の人生も描かれている。そして、人間は幸福になるために生きているという、作者のメッセージが伝わってくるのである。
細谷正充
ほそや・まさみつ●文芸評論家


























