今村夏子は現代文学において最重要作家の一人である
[レビュアー] 栗原裕一郎(文芸評論家)

『群像2026年2月号』(講談社)
今村夏子の新作「山登り」が『群像』2月号に掲載されている。
アルバイトで暮らす40歳過ぎの「私」はある日の朝、習慣でつけたテレビでたまたま女の子が山登りをする番組を見る。登山に運命的なものを感じた「私」は、YouTubeで登山動画を漁り、旅行会社の無料説明会の講習を受け、ツアーに参加して山に登ることになる。
まったく読む気にならないあらすじだろうと書いていて自分でも思うが、このなんてことのない「私」の行動や日常に少しずつ歪みが兆し、最後には、世界が破れかけた薄皮の上に存在しているかのような不安定なところに連れていかれる。
たとえば、こんな場面がある。久しぶりに連絡した弟に「私」はいきなり罵倒される。ところが弟の怒声は次第に力を失っていき通話は途絶える。電話が切れたあと「私」は「スマホの電源を切って台所のカウンターの上に置き、画面の上に小さじ一杯ぶんくらいの塩を盛った」。
弟の暴発的な怒りへの説明は最小限で、スマホに塩を盛るという奇矯な振る舞いの理由は明示されない。何が起こっているのかにわかには了解できず、ただならぬ空気ばかりが残留する。
今村作品に共通するこうした空気感は、多くの論者により「不穏」と形容されてきた。不穏さは私見では二つの要素に由来する。主人公の発達障害的傾向と、背後に滲むスピリチュアルや新興宗教の気配だ。
派手な存在感はないが、今村夏子は現代文学において最重要作家の一人である。とりわけ社会からはみ出してしまう主人公の造形が及ぼした影響には見過ごせないものがあるが、「生きづらさ」といった観念で丸めようとするとズレる。
それは先の二要素が、生きづらさというよりも、社会との接点で生じる軋みとして現れてくるからだ。不穏な軋みだ。なのに不特定多数に訴えかける。そこに今村の個性と普遍性がある。
児玉雨子「神になるつもりがないなら帰って」(文藝春季号)。「うたのことば」と題した特集に寄せた、作詞家志望者を主人公にした一篇。実際に売れっ子作詞家である児玉が手の内を晒したような作で興味深い。




















