『笑い三年、泣き三月。』
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【解説】雑多で、猥雑で、ごった煮で――『笑い三年、泣き三月。』木内 昇【文庫巻末解説:大矢博子】
[レビュアー] カドブン
木内 昇『笑い三年、泣き三月。』(角川文庫)の刊行を記念して、巻末に収録された「解説」を特別公開!

【解説】雑多で、猥雑で、ごった煮で――『笑い三年、泣き三月。』木内 昇【文…
■ 木内 昇『笑い三年、泣き三月。』文庫巻末解説
解説
大矢 博子(書評家)
何年か前、お笑い好きの友人がM‐1グランプリ決勝を見て、「こっちのコンビの方が面白かったのに、なぜ最終決戦で負けたのか納得がいかん!」と怒りまくっていたことがあった。私はファーストラウンドで敗退した別のコンビのネタの方がツボにハマって腹筋が捩れるほど笑ったのだが、そう言うと「ええ……?」と実に微妙な顔をされた。解せぬ。
つまるところ、笑いのツボというのは人によってまったく違うのだ。たとえば映画を見て泣くシーンは誰しも似たり寄ったりだが、笑う場所は多岐にわたる。「ここで?」という箇所で客席の一部から含み笑いが聞こえてきたりすることだってある。
何を面白いと思うか、流行り廃りはあれど、人によって基準が異なり明確な物差しの存在しないこのジャンルで、「より多くの」人に笑いを届けようと頑張る芸人さんたちには頭が下がる。
だがこれはお笑いに限った話ではない。
同じ国で同じ時代を生きていても、人はひとりひとり違う。何を楽しいと思い、何を辛いと思うか。壁に当たったときに何を思うか。たとえ同じ経験を潜り抜けてきたとしても、それに対して感じることは皆違うのだ。だから人は難しく、そして面白い。『笑い三年、泣き三月。』は、そんな物語である。
昭和二十一年の東京、上野駅に万歳芸人の岡部善造が降り立った場面から物語は始まる。旅芸人一座で三十年以上を過ごし、戦争も終わったことだし一旗あげようと意気揚々だ。ところが、戦争中は空襲のなかった地方ばかり回っていた善造は焼け野原になった東京にびっくり。
その善造に近づいたのは、戦災孤児の田川武雄だ。親切めかして浅草まで案内し、食べ物をたかるつもりだったが、話の通じない善造に調子を狂わされる。
もうひとりの主要人物は復員兵の鹿内光秀。戦争に行くまでは撮影所で働いており、エロ・グロ・ナンセンスの傑作を作りたいという夢もあったが、戻ってきてからは仕事もない。屑鉄拾いをしているとき、彼の放屁に子どもたちが笑っているのを見て屁技の芸人(何だそれは)だと勘違いした善造からコンビ結成を申し込まれる。
そこでふたりはコンビでお笑い街道を爆進……とはならない。光秀はあくまで映画が撮りたいのだから。
昔のツテで光秀は俄仕立ての演芸ホール「ミリオン座」で掃除や照明を手伝うことになる。額縁ショウやギリギリ・ショウといった女性の体を見せるショウが中心の劇場で、善造は下働きのほかに幕間の漫談をやらせてもらうことに。武雄も雇われた。支配人の杉浦、踊り子のふう子らとともに船出したミリオン座だったが……。
まず目を引くのが、善造と周囲の「ずれ」だ。
たとえば善造が三十年やってきた「まんざい」は「万歳」である。新年に家々を訪れて祝言を述べ、舞や滑稽な掛け合いなどを見せる門付け芸のことだ。愛知県の「三河万歳」が国の重要無形民俗文化財に選ばれているくらい伝統のある演芸で、今の漫才のルーツとも言われている。
だが光秀や武雄の知っている「まんざい」は、その「漫才」の方。戦前のエンタツ・アチャコを嚆矢とするしゃべくり漫才が、ラジオの普及で大流行した。様式を大事にする万歳とはまったく違うのだが、大正の頃から旅芸人一座にいた善造はそれを知らない。
「人を笑わせるまんざい」という同じものに対しての認識の違いは、そのまま「何で笑わせるのを理想とするか」という価値観の違いに通じる。笑いとは幸せで温かいもの、笑った後で元気に生きていけるためにあるものと信じて疑わない善造に対し、〈一瞬の爆発を起こすためなら道徳だの温情だの理性だの、そんなもんはかなぐり捨てて、全身全霊傾けて作るのが笑い〉と考える光秀。
さらに大きな違いは、彼らの戦争体験だ。
空襲のない地方を巡業し、娯楽のなかった時代に農家を回って喜ばれていた善造は戦争の悲惨さを知らない。むしろ戦時中は「楽しかった」と言う。光秀は南洋に行ったが硫黄島やビルマ戦線のような大きな戦闘はなく、戻って来られた。むしろ気持ちは映画への復帰にある。
翻って、戦争で仲の良かった家族をみんな亡くし、住む家も食べる手段もなく、犯罪紛いの手で生きてきた武雄はどうか。戦中教育を受けて育った彼は、天皇陛下や国のために死ぬのは当たり前で、いきなり民主主義と言われてもわけがわからない。財閥令嬢(自己申告)としてエレガントな物言いのふう子は、観客に体を見せる踊り子になった。支配人の杉浦が映画を撮る側から劇場主へと転身したのも、戦争によってもたらされたものが理由だ。
戦争、と一口に言う。だが戦争によって受けた影響や、戦争そのものをどう考えるかは、人によってまったく違う。戦前と変わらない者もいれば、大きく変わった者、変わらざるを得なかった者もいるという、厳然たる事実が浮かび上がる。
誰が正しくて誰が間違っているというわけではない。笑いに対する考え方が人によって違うように、戦争に対する考え方も違う。そんなバラバラの人たちが、ぶつかりあったり励ましあったりしながら進む様子を描いたのが本書だ。
雑多で、猥雑で、ごった煮で。激しい言い争いもあるし、言い争ったところで解決しない問題が殆どだ。進む方向もそれぞれ違う。だが「生き抜く」という点においては同じだ。そんな「生き抜く人々」を、木内昇の筆は慈しみとおかしみを持って描いている。彼らはそれぞれ懸命で、でもそれがどこか滑稽で、そしておしなべて逞しい。それは大きな災害や疫禍を経験した今の私たちにも通じるものだ。
本書の単行本刊行は二〇一一年の九月。執筆は東日本大震災前だった。だが今の時代にこそ、読まれたい一冊である。
もうひとつ、本書の大きな魅力として、戦後のエンタメの描き方がある。戦後風俗復興史と言ってもいい。昭和二十年三月の東京大空襲の一ヶ月後に、焼け残った電気館で映画を無料上映したこと。あちこちに死体が転がる中で、それでも行列ができたこと。戦後の、額縁ショウに始まるストリップの変遷。お笑い、舞台、流行歌。武雄は読書の楽しみを取り戻し、写真という新たな趣味にも出会う。
食べるものもろくにない状態で、それでも人々はエンタメを求めたのだ。エンタメを提供しようとしたのだ。両腕をなくした復員兵が、善造の芸に笑い転げ、半裸の踊り子に足で拍手する場面がある。そこで支配人の杉浦は言う。
〈人間、笑いたいときに笑えて、泣きたいときに泣けたら、だぁれも映画や実演なんか観ようとは思わないのよ〉
戦後すぐに劇場を立ち上げた、エンタメに関わる者の矜持がここにある。
書名の『笑い三年、泣き三月。』は、義太夫で古くから言われる、泣かせる演技より笑わせる演技のほうが難しい、といった教えからの引用だと著者の木内さんに聞いた。笑わせる技術の難しさを核に置いた本書のテーマであると同時に、誰も彼もが泣き暮らす日々を経て、やっと笑える日がやってきたという気持ちも込められているという。そこに、小説というエンタメを読者に届ける立場としての思いもあったに違いないと、私は思う。エンタメは腹には溜まらない。だが心を救い、元気づける効果は確かにあるのだ。だから私たちはどんなに辛い状況でもエンタメを、笑いを、物語を、欲するのである。
木内昇はデビュー作『新選組 幕末の青嵐』(集英社文庫)で、新選組隊士の多視点で彼らの青春譜を描いた。血腥い幕末で、同じ隊にいながら異なる経験と異なる理想を持つ者たちのそれぞれの思いが瑞々しく、そして激しく綴られた。また、戦中戦後を舞台にした『かたばみ』(角川文庫)は、「こうあるべき」という当時理想とされた家族の形からはずれた人々が、それでも逞しく、幸せを求めてずんずんと前に進む様子が活写されている。特に『かたばみ』は本書と共通するテーマも多いので、ぜひ併せてお読みいただきたい。
さまざまな人が集まって、この社会はできている。みんなが同じ方向を向いていなくていいし、みんなが同じネタで笑わなくてもいい。雑多な人々がそれぞれ好きなところで笑い、そしてともに生き抜いていく。そんな世界を木内昇は描き続けているのである。



























