『夏帆』
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〈書評〉『夏帆(かほ) The Tale of KAHO』村上春樹 著
[レビュアー] 阿部公彦(東京大学教授)
◆現実と異界の深奥へ導かれ
いつもながらの滑らかな読み心地で、1行目から瞬く間に引きこまれる。主人公は絵本作家の夏帆。デートの相手にいきなり「君みたいな醜い相手は初めてだよ」と言われ、あまりの不条理に心が波立つ。しかし、この後、男の発言は奇妙に夏帆の心理とシンクロしこちらに入りこんでくる。たしかに自分の顔のことは真剣に考えていなかった…気づいたときには夏帆は現実の一歩外に連れ出されている。
くせ者はなめらかさなのだ。夏帆が出会う相手は彼女の心の動きを読み取り、早々に答えを返す。夏帆の疑念はすべてお見通し。絶えず先回りされる気分が、不安を呼ぶ。
男に続いて夏帆の心中に直接語りかけてきたのは、「ありくい」だった。ありくいは実在の動物だが、このありくいは心の中で話しかけてくる。そして、埼玉に住んでいた夏帆になぜか東京の武蔵境への引っ越しを勧めてくる。どうやら天敵ジャガーと闘うために手を借りたいらしい。武蔵境の床下は、秘密の通路を通じてブラジル奥地のジャングルとつながっている。夏帆はいつの間にかジャガー暗殺のミッションを受け、「とぎや」の主人に包丁を向ける。
しかし、完全に異界に入りこんだわけではない。夏帆自身にも解決すべき問題があった。母親のことだ。動物の代理戦争に加わったのではなく、一周回って、動物が夏帆の代理で戦うかのようだ。夏帆が最終的に包丁を向けるのは、シロアリの女王が乗り移った母親だが、たしかに母親自身の背負った過去の痕跡もそこには見える。果たして母娘の和解は可能なのか。
本作で鍵となるのは「おそらく」という語だ。例の「やれやれ」と同じく小さくブレーキを効かせるひと言。夏帆が見る夢から夏帆の書く絵本作品まで、複数の副筋が並走する本作で、作品の深奥へと私たちの目を導くのがこうした小声のひと言で、断片の詩学の中に、虚無ぎりぎりのところで作家の存在を響かせる。半ば独立した四つの章は、それぞれ楽章のように読めそうだ。
(新潮社・2860円)
1949年生まれ。作家。『ノルウェイの森』などの小説のほか訳書多数。
◆もう1冊
『自負と偏見』ジェイン・オースティン著、小山太一訳(新潮文庫)

























