西きょうじ「そもそも」
2017/03/03

第十四回 そもそも英語教育は必要なのか?

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 二〇一六年一二月一九日、日本英語検定協会(英検)が、以下のようなアンケート結果を報告した。「五〇代男性の英検一級取得者の平均年収は一一〇〇万円以上である」。これはとても誘導的なレトリックであり、リテラシーのない人はミスリードされてしまうだろう。
 調査方法としては、「英ナビ!の社会人会員の方に、英語力と人生・生活の質(クオリティ オブ ライフ=QOL)の関係性を測るため二〇一六年三月に実施。一八二八人が回答した。このアンケート結果はその一部」だということだ。英語を教えることをなりわいとしている私にとっては他人事ではないので、この報告の問題点をあげてみることにする。
 まずネット会員対象のアンケートでは一般性は得られないだろう、という点がある。実際には、無作為抽出で対象人数を多くしないと信頼性のあるデータとして扱うことはできないだろう。
 次に、この英検のアンケートから結論を導くにいたる道筋には論理性が欠如しているという点について。アンケート結果をまとめた結論は順に次のようになっている。

一.英語の早期学習はやはり効果的である
二.若い年代ほど仕事での英語の必要性を感じている

 このあたりは確かにそうなのだろうな、と思う。が、時間は限られているので、英語の早期学習を行うことによって、どのような学習機会が犠牲にされることになるのかも含めて考える必要はあるだろう。また、英語の必要性を感じているという点については、アンケート対象が「英ナビ!」に登録している母集団だということは考慮に入れる必要があるだろう。ちなみに『「日本人と英語」の社会学』(研究社)という本では、日本の英語教育に関係する様々な言説、さらには現代の英語教育についての方向性が、データ分析に基づいて批判されている。「英語ニーズは本当に増加しているのか」「英語ができると収入が増えるのか」といった英検の結果報告と重複する項目もあり、データ分析結果は全く異なっているので、比較してみるととても面白い。この本によると、仕事における英語の必要性は近年でも限定的であり、主観レベルでの必要感のほうが客観的必要性(実際の英語使用の有無)よりも高いということだ。また、英語の必要性は高学歴者、マスメディア等が過剰に喧伝しているので、その影響を受けているという部分もあるだろう。

三.英語学習を早くスタートするほど、将来的な平均年収は高くなる

 この結論は論理性に欠けているのだが、意外に気づきにくいのかもしれない。この点について、「英語学習開始時期と、現在の平均年収の相関については、四〇代、五〇代男性においては小学生以前に学習を始めたグループは、中学生以上から学習を始めたグループに対して、平均年収が約一三七万円高いことが分かりました」とまとめられている。しかし、同時に生じている二つの現象を因果関係で結びつけてしまうのは強引すぎるだろう。経済的な点で家庭環境に恵まれている人が早く英語学習をスタートすることになるだろうし、またそのような環境の人が年収も高くなりやすいからだ。つまりA⇒B(AならばB)とA⇒C(AならばC)が成立する結果、BとCはともに生じやすいが、それだけでB⇒C(BならばC)という因果関係は成立するとはいえないというわけだ。つまりこのデータからでは、早く英語学習を始めるということと高収入の直接的因果関係は説明できないのだ。因果関係を説明するには経済的環境が対等なもの同士の間で、早く英語学習を始めたものとそうでないものを比較する必要があるだろう。
 このようなデータの取り方、解釈の仕方だと、たとえば幼少期にピアノやバイオリンを習った女性のほうが世帯収入は高い、というアンケート結果が得られたら(そのようなデータは存在しないかもしれないが、リサーチすればそういう結果が出るだろうと思われる)、楽器を習ったら高収入になるという結論になってしまうだろう。「幼い頃からピアノを習わせよう、そうすれば将来豊かになるぞ!」……そもそも子どもにピアノを習わせる経済的余裕なんかない、という人には響きようもないメッセージだなあ……。

四.五〇代男性の英検一級取得者の平均年収は一一〇〇万円以上

 ここでは「五〇代男性においては、英検を上位級まで取得した方ほど平均年収が高い結果となりました。特に五〇代男性の英検一級取得者の平均年収は一一一四万円となっております」と述べられているが、英検一級取得者は高学歴の集団の割合が多いだろうから、高学歴者のほうが収入が高い傾向があるということに過ぎない。「英検をとれば収入が上がる」という印象を作ろうとする意図が透けて見える。話は逸れるが、同じ資質を持っている人同士で比べると学歴と収入には因果関係がない、つまりどこの大学に行こうと収入には影響しない、というデータも得られている。教育経済学という分野ではエビデンスベースト(エビデンスに基づいた)教育政策提言を目指している。慶応大学SFC(湘南藤沢キャンパス)の中室牧子准教授によると、違う大学に進学した一卵性双生児の就職後の賃金の差はほとんどなかった、ということだ。中室氏の言葉を引用しておこう。「同じ大卒であれば、どの大学に行っていても、その後の人生で得られた賃金に、ほとんど差はなかったんです。それならば、と教育段階を下げて、同じ設定で、高校の選択が学力に影響しているかを調べてみました。すると、同じ中学に通い、別の高校に通った一卵性双生児が合格した大学の偏差値にも、差はありませんでした」さらに、「大学や高校の選択は、世の中で思われているほど重要ではない可能性がある」ということだ。(アメリカではプリンストン大学の経済学者らが、大学の選択は将来の賃金に影響しないと結論付けた論文を発表している)

五.英検一級、準一級取得者ほど、仕事での英語の必要性と、幸福度は高い

 仕事で必要だから資格を取る、のかもしれないし、資格があるからそれを使う仕事を選ぶのかもしれない、という逆の因果関係も考えられる。また『「日本人と英語」の社会学』によると、仕事での英語の必要性は高学歴者・ホワイトカラー職者・正社員・大企業の社員で高くなるということなので、英検一級、準一級をより多く取得しているのはそれらの集団の人間だということを言っているのにすぎないと解釈できる。幸福度についても同様だろう。少なくとも英検一級を取る⇒幸福度が高くなるという因果関係を導くのは強引である。

 というようなわけで、英検のアンケート結果は興味深いものであるが、その結論は論理的に導かれたものとは言えない。これは英検のアンケート結果に限った話ではない。英語教育改革を唱える現場でも、信用に足るデータに基づいて論理的に結論を導き出したうえで改革方針を決定しているわけではない。英語を話せないという劣等感を正当化しようとして、「そもそも学校の英語教育が悪かったのだ」と、改革の必要を訴える人がリーダーであったことさえある。小学校から習っていれば話せたはずだという無根拠な個人的感情が政策決定に影響を及ぼすのはどうかと思う。そもそも英語改革を論じる場に英語・英語教育の専門家が含まれていないことが多いというのは問題だろう。しかし今回はその部分にメスを入れるつもりはない。今回論じたいのは、英語教育の方法ではなく、「そもそも英語教育は必要不可欠なのか」という点だ。
 英語教育改革に携わる人たちは、「英語教育が必要だ」という前提に基づいて、「どういう教育をするか」について改革を行っていこうとしているわけだが、その前提は揺るがないものなのか。また、英語教育に携わる者は(私も含めて)どのように英語を教えるかにばかり目が行きがちである。それは正当なことであり、そもそも英語教育が不必要ならば私自身、仕事を失うわけだが、「そもそも」の前提から考えてみるというのがこのコラムの原点なのだ。
 まず、何のために公教育としての英語を教えるのか、その目的は何なのか、という点を明確にする必要があるだろう。もちろん英語学習者それぞれの目標は多様であっていいし、そうあるべきだが……。
 全日本教職員組合(全教)は二〇〇一年に次のような発表をしている。

〈外国語教育の四目的〉
一.外国語の学習をとおして、世界平和、民族共生、民主主義、人権擁護、環境保護のために、世界の人びととの理解、交流、連帯を進める
二.労働と生活を基礎として、外国語の学習で養うことができる思考や感性を育てる
三.外国語と日本語とを比較して、日本語への認識を深める
四.以上をふまえながら、外国語を使う能力の基礎を養う

 一方、日本の経済界やそれに影響される政治家は世界で戦えるグローバル人材の育成として「英語が使える」という実用面を英語教育の目的として掲げている。さらには国民全体が英語を使えるように、という目的もしばしば口にされている。
 この対立に関してどちらが理念として正しいか、という判断はここでは保留する。全教の唱える目的は、現場感覚からすると理念的、理想的すぎるともいえるだろう。教育現場の実態からかい離した教養主義的要素も見受けられる。一方で、グローバル人材の育成を目指す英語教育が、全体としては英語嫌いをさらに増やし平均的な英語力低下をもたらすことになる、という点は英語の教育現場から見ると明らかだ。現在の段階では経済界の意向が強く反映され日本の英語教育の方向は「グローバル人材の育成」が優勢である。それを世間に広がる「英会話信仰」が後押ししている。繰り返すが、現時点においてこの論争を行っている人たちのどちらの意見が正しいか、という議論を展開するつもりはない。両者が共通に見逃している、あるいは議論を避けている重要なポイントを指摘したいからだ。
 それは技術革新である。端的に言うとAIの進化である。AIがディープラーニングを獲得した今では、機械翻訳の進化が著しい。これまでの機械翻訳の研究では、日本語を英語に翻訳する際には、構文解析や形態素解析で日本語の語順を分解して、まず日本語の文章の意味をコンピューターに理解させて、それを元に英語の構文をつくってきた。しかし、ディープラーニングの獲得によってその三〇年余りの研究はもはや過去の遺物と化してしまった。研究者たちにとっては厳しい現実である。ディープラーニングでは、実際に行われた会話をデータとしてインプットしていくとコンピュータ自体が学習していく。すると、文法的に正しい語順でなくても、実際に使われて通じている発話であれば翻訳が可能になっていくのだ。
 その結果、実用ベースの英語学習は急激に価値を失うことになる。機械が瞬時に相手の言葉を翻訳してくれるし自分の言葉も翻訳して伝えてくれることになるからだ。音声認識も急速に進歩している。いずれは腕時計ほどの大きさの装置を身に付けていれば、機械に向かって話すのではなく相手に顔を向けて話していても、スムーズに両者の言葉が翻訳・音声化されて一般的な会話は可能になるだろう。それはおそらくはるか未来のことではない。今の小学生が社会人になるころにはそうなっているだろうと思う。そうだとすれば、今小学校低学年段階から実用英語に特化した教育を受けさせられるのは、機会損失と言えるかもしれない。その時期は自国語や思考能力が急速に発達する時期でもあるからだ。
 もはや、実用ベースの早期英語教育の価値は消え失せてしまうことになる。できるだけ多くの日本人が英語で世界の人たちとやりとりできるようになればいい、というような目的で英語学習を義務化する必要はなくなるわけだ。これはPC(パソコン)の進化と類比できる現象だ。初期の段階ではPCを使うにはそれに必要な言語(ベーシックやC言語など)を知る必要があった。その言語習得は目的ではなく手段であったが、そのためにかなりの時間を費やした覚えがある。今では、PCの一般的な利用が目的ならば言語を学習する必要はない。もちろん、言語を習得しプログラミングを身に付けたほうがPCをより活用できるわけだが。
 同様に日常レベルの英会話が目的であるならば英語の学習は必要がなくなるのだろう。確かに自分の音声で相手とコミュニケートする喜び(私もアフリカで「ジャンボ!」〈スワヒリ語で「おはよう」〉と話しかけたときに「ジャンボ!」と返してもらった時の喜びは今も忘れられない)は大きなものだが、異文化との実感的なコミュニケーションは実用英語の目的とは認識されていないようだ。
 技術革新によって社会が大きく変動するということはこれまでにもあったが、AIはおそらく産業革命並みに社会の在り方を大きく変えることになるだろう。これからの世代育成において従来の価値観を植えつける教育をすればよい、というわけにはいかないのだ。グローバル化=英語習得というような前時代的価値観に基づいた教育をすることで、次世代の教育機会を奪ってはいけないだろう。これまでだって、理系の人間は論文を英語で書かなければいけないということで、ネイティブスピーカーの研究者と比較すると、研究にかける時間と労力を失ってきたのだ。今後は英語にかける時間と労力を研究に向けられる時代になるだろうし、そうすれば日本人の研究者は世界レベルで活躍しやすくなるだろう。研究のための費用を国が支出するつもりがあれば……。
 では、最終結論として英語教育は不要になるのか。英語を教える立場として、私個人はそう思ってはいない。実用英語教育偏重は「これからのグローバル化時代に」といいながら「これからのAI時代」が見えていない点がイタすぎるとは思っている。しかし、個人と個人が文化を越えて肉声で意思を多少なりとも通じ合える、ということには意味があるだろう。
 また、ある一定以上の内容を伝えるためには論理的フレームが共有される必要がある。これは英語に限ったものではない。もう少し広範囲の言語(文字を持つ言語には限られるが)に共通するものである。そのフレームは現代日本人が日本語で日常的な会話を行うときに共有されているものではない。日本人同士は、多くのコンテクストを共有しているので、論理的なフレームから逸脱していても、いわば腹芸で伝達内容を理解しあえるのである。このフレームは外国語教育によって理解させる方が、日本語で教育するよりも効率的だろう。確かに日本語でも判決文などは、結論⇒直接的サポート①②⇒結論の確認となっている。これは、論理的フレームにきちんとおさまっていて、逸脱がないのだが、判決文を大量に読んで論理を身に付ける、というのは学習過程としてどうかと思う。英語を学ぶことで普遍性のある論理性を身に付け、日本語を外から見直すことで日本語力も強化できるだろう。
 現場で英語を教えていて実感することであるが、最上位大学志望者に英語で意見を論じさせると(入試では自由英作、課題英作という)、英語のミスがない場合でも(実際にはそうもいかないが)、まったく主張を伝達できていない文章を作り上げる。たとえば、「日本の社会は高齢化しつつあり、それに伴い社会福祉が問題になっています。この問題について、あなたが考えていることを書きなさい〔静岡大〕」とか「学級崩壊とその責任の所在は家庭にあるか学校にあるか〔広島大〕」といった問題が出題されるのだが、そもそも知識がなかったりそうしたテーマについて考えたこともないので書くべき内容を思いつかない、という生徒が多い。翻訳ソフトが進化しても話す内容がないのであればどうしようもないだろう。しかし、問題はその段階をクリアーしたあとにも生じる。結論とサポートがかみ合わなかったり、論旨に関係のない記述が入り込んで論旨が見えなくなったりするのである。日本語に訳してみると私も日本人なので何を言いたいのかだいたい理解できるのだが、少なくとも相手が英語しか読めない場合には理解不能な文章になってしまう。東大志望者(そしてそういうレベルでも東大に受かってしまう)であってもそれが現状なのだ。すると彼らの言説を翻訳ソフトが正しく翻訳したとしても、相手には通じないということになる。これではせっかくの翻訳ソフトが生きてこないだろう。(もちろんさらにディープラーニングによって、日本人の非論理的な発話を論理的に構成しなおすようになっていくことになるかもしれないが……)
 英語を教える立場として、私自身は英語教育を通じて、日本語を使う場合とは異なる思考の仕方、あるいは伝達内容の組み立て方が必要になるということを知り、自分とは異なる思考の仕方をする人たち、また異なる音声感覚を持つ人たちがいるということを実感し、そこに優劣を感じ取るのではなく、共感可能性の道を開くことが重要だと考えている。そういう点でネイティブスピーカーの英語に対してほかのタイプの英語が劣っているという狭量な考え方を植え付けないことも重要である。グローバルな人材というのは、英語が話せるということではなく、世界の多様さを受け入れ、多様な人々に働きかけることができる人材のことなのだと思う。
 そして英語教師という立場を越えて言うと、実用英語の教育以上に国語教育、様々な言説に対するリテラシーを教育することのほうが重要だと考えている。小学校段階で英語の授業時間を増やすことで、自国語、思考力を教育する機会が奪われていくことに対して危惧しているのだ。冒頭にあげた英検の発表した結論にミスリードされてしまわないようなリテラシー(批判的思考力)こそが重要な時代なのだろう。私自身は高校生に英語を教えながら、多様な世界を受け入れ、受信発信におけるリテラシーを向上させることを常に考えている。
 とりわけ、このpost-truth(ポストトゥルース)が広がる時代において……。

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