西きょうじ「そもそも」
2017/08/04

第十九回 そもそも、ぼくたちがここにいるのは「たまたま」である

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「いま・ここ」(自分が今のような形でここに存在していること)を私たちは当然のことのように考えやすい。それはもっともなことだ。思考であれ行動であれ、自分が「いま・ここ」にいることが出発点だからだ。しかし、そもそも、どのような経緯をたどって自分が「いま・ここ」にいるのかを考えてみると、それがいかに「たまたま」の積み重ねであるかに気づくことになる。今回は「たまたま」(偶発性)について、書いてみようと思う。(パラレルワールドが存在する可能性があるならば、この世界の存在自体が偶発的なことなのかもしれない。興味津々な分野ではあるが、今回はそこには触れないようにする。興味がある人は「世界が注目、13歳天才物理少年が本気で警告『CERNがパラレルワールドを破壊中、宇宙滅亡する』」という記事を検索の上、関係書籍をあたってみてほしい)
 まず、そもそも、偶発性とはどう定義づけられるのか、ということがある。竹内啓(けい)氏は、「起こること、あるいは起こったことについて、科学的あるいは論理的に必然性が示されないような事象を、偶然という」と定義している。(『偶然とは何か――その積極的意味』岩波新書)。必然的ではないすべての事象のことが「偶然」だというわけだが、これでは偶然の範囲が広すぎて、理解しにくいかと思う。
 日本語では、「偶然」と「必然」が対置されるが、英語では、このような対の語ではなく、「必然的に」necessarily「偶然に」accidentallyとなる。「偶然に」というのは、事故だと考えるとわかりやすいかもしれない。このコラムでは、必然=予測可能、説明可能な筋道をたどることが確定している出来事、偶然=予測不能の、当事者の意図せぬ事象がふりかかること、という観点でとらえることにする。
 では、買った宝くじが当たるのは、偶然(たまたま)なのか。たとえば、サマージャンボなどでは、払い戻し率の期待値は約四三・七パーセントだ。買った値段の半分弱が返ってくるならば偶然とは言えないだろう。一方、一等が当たるのは一〇〇〇万分の一、こうなると、偶然と言えそうなものだが、ここではそう考えない。一等を当てようともくろんで(可能性の低さを考慮しようがしまいが)宝くじを買ったという意図を考えると、一等当選は極めて可能性が低いものの、自分の意図とは無関係に外部から偶発的に起こったことだとは言えなくなる。このコラムでは、当事者の意図、あるいは目的性の有無という条件を加えて、偶然性を定義しているからだ。
 すると、私たちが、「いま・ここ」にいることは、偶然である。そもそも、進化の歴史から考えてもそうなるはずだ。生物の進化は突然変異と自然淘汰を基本としているが、突然変異は一定の周期は認められるものの、偶発的に起こるものと考えられる。一方、自然淘汰と複製のプログラムはほぼ必然的なものだと考えられる。すると、必然的な流れに、偶発的な突然変異が方向転換を加えながら、生命の歴史が形成されてきた、といえるだろう。進化は、目的性をもって直線的に進行するものではない、ということだ。ただ、もしかしたら、この考え方は間違っているかもしれない。進化生物学者で『利己的な遺伝子』の著者であるリチャード・ドーキンスは進化の過程を必然的なものだととらえ、同じく進化生物学者のスティーブン・ジェイ・グールドは偶発的なものだととらえる(収斂説対断続平衡説)、というように学者間でも合意されているわけではないからだ。
 ドーキンスの進化論のように、リニア(線型)な因果関係として事象をとらえるのは、キリスト教的思考法(すべては神の目的に向かって進んでいく、様々な事象は神の思し召しであり、そこには神の意図がある)、あるいは西洋近代合理主義(すべては合理的に還元可能である=デカルト的思考)、また、マルクス史観(歴史は必然的な段階をたどって共産化に進む)、さらには弁証法的思考法(相反するものが対立すると止揚して次の段階に進む)と共通する考え方だと言えるだろう。(ドーキンス自身は『神は妄想である』で宗教を徹底的に批判しており、その批判は合理的なものではあるが、合理主義もまた一つの宗教ではないかと私は感じており、そのリニアな思考は神の救済に至る思考と共通点があるかと思う。ちなみにグールドは『神と科学は共存できるか?』で共存可能性を探っている……。ドーキンスとグールドは並行して読むと面白い……)私自身は、そういう目的に向けたリニアな思考法の限界があちらこちらに見られ、非線型的思考で補完する必要が生じているのが、現代だと感じている。
 進化の歴史という大げさなことを持ち出さず、自分の誕生を考えてみるだけでも、自分がいまここにいるのは偶然だということは実感できるはずだ。なにしろ、精子と卵子の結合の結果が人の誕生なのであり、精子の数は莫大なものだから、どの精子が卵子と結合できるかには偶然の要素が大いに関与せざるをえない。さらに、精子と卵子を提供する側には子どもを作る目的があったとしても、子どもは目的性を持って自覚的に生まれるわけではない。英語で、「生まれる」をbe bornと受動態で表現するのは、きわめて適切だ。私たちの誕生は偶発的な事件であり、死もそれ自体は必然であるが、偶発的に訪れる事件だと言えるだろう。
 さらに、誕生後、子どもは様々なことを学習していくことになるのだが、基本的には学習は外部環境への反応である。それは、生後すぐに赤ん坊が親のしぐさや表情を真似ようとすることからも明らかだ。(脳の前頭葉には、相手の動作を見たとき、自分がその動作をしたときと同じように反応する神経細胞がある)さらに、生まれる環境を自分で選択することはできない。すると、学習の結果、形成されていく能力も(少なくとも幼児期には)、偶発的なものを基本としているということになる。つまり、個人の現在の能力には偶然の要素が大いに関与しているわけだ。(実は、このことは自己評価、他者評価の際に考慮すべき重要な要素だと思う)
 こう考えると、自分が今のような形でここに存在しているということ自体、偶然が大きくかかわった結
果である、といえるだろう。自分の固有の思想や能
力も含めて、だ。まず、ここまでを第一段階としよう。
 次に、業績の評価について考えてみる。いわゆる社会的成功には偶然の要素が必然的に関わっているのだが、こういわれると人は反発を感じやすい。成功は高い能力と努力の結果だと思い込みたいからだ。さらには、偶然の成功という言葉には、努力や能力は関係ないと思わせてしまいがちな響きがある。すると、努力を放棄することを正当化してしまう恐れがある。それを回避するためにも、偶然性は排除して考えておきたくなるのだ。
 また、人の脳は、物語、因果関係、必然性に引き付けられがちだからでもある。脳は出来事や自分の行動に対して、後付けで因果関係を求める、特に一つの原因を求めたがる性質があるのだ。
 たとえば、こういう実験がある。二枚の写真のうち一枚を選ぶように求められ、一枚を選ぶのだが、それをわからぬようにすり替えられてしまう。そして、なぜこちら(自分が本来選んでいない方)を選んだのか、と聞かれると、その理由を当然のごとく述べ始めるのだ。つまり、人は自分の行動を後付けで正当化したがるものなのだ。(『脳はなにかと言い訳する』〈池谷裕二/新潮文庫〉には多くの例があげられている)
 その結果、成功したことについても、あとからそれが必然であったかのように理由付けを行うことになる。しかし、先に述べた通り、成功は一つの原因による結果ではなく、偶然の要素が必然的に関わっている。ちなみに、ノーベル賞受賞の物理学者のマックス・ボルンは「偶然は因果よりも、より基本的な概念である」と述べている。
『たまたま――日常に潜む「偶然」を科学する』〈レナード・ムロディナウ/ダイヤモンド社〉(原題はThe Drunkard’s Walk副題はHow Randomness Rules Our Livesそれぞれ訳すと、「酔っ払いの歩行」「ランダムネスはいかに我々の人生を左右するのか」)という本には、成功と偶然について興味深い事例が次々とあげられている。著者のムロディナウはノーベル物理学賞受賞者のファインマンの教えを受けた物理学者だが、「スタートレック」などのTVドラマの脚本を書いている。また、倒壊したワールドトレードセンターから「たまたま」奇跡的に生還したという経歴のある人だ。「酔っ払いの歩行」とは、直線的に進むのではなく、何かにつまずいたりしながら、紆余曲折して進む歩き方のことだ。以前、このコラムでは、「脇道に逸れて、想定外のものに出くわすことが、好奇心を高めるのに重要なのかもしれません」(「好奇心は幸福の鍵?」)と書いたが、「脇道に逸れて、想定外のものに出くわすこと」は、自分の変化の原因となりうるチャンスでもある。
「ダイ・ハード」で有名なブルース・ウィリスが世に出たのもたまたまだった。売れない俳優だった彼は、たまたまガールフレンドに会うためにロスに飛んだ、するとそこでオーディションをうけてみたら、と言われた。うけてみると、製作側の多くの重役は彼の起用に反対したが、たまたまあるプロデューサーがウィリスを押して、テレビドラマ「こちらブルームーン探偵社」の主役を得た。はじめはヒットしなかったが、二期目も継続することになると突然ヒットし、彼はエミー賞とゴールデングローブ賞を獲った。これが後の「ダイ・ハード」などの活躍につながった。この成り行きなどは、たまたまの出来事が一つでも欠けていたらそうはいかなかっただろう。同じくらいの才能があって同じくらいの努力をしている俳優であっても、「たまたま」が重ならないために、うまくいかないということも多いはずだ。
 あるいは、ビル・ゲイツが(アップル社のソフトの方が当時は優秀だったのにもかかわらず)、偶然が重なった結果IBMと契約でき、そこから大きな成功物語が始まった、という経緯も、例としてあげられている。
 また、「出版社はベストセラーを見抜けない」という項目では、「ハリー・ポッター」は九社にはねられた。が、それでも出版先を求めた結果、たまたま拾われて、今や世界的ヒットとなっている、という例もあげられている。
 著者は、巨額の利益をだすファンドマネージャの成功は「たまたま」の産物にすぎないと述べ、さらには、ハリウッドでの成功などコイン投げと変わらない、という計算まで紹介している。
 一言で言うと、成功や失敗には偶発的要素が大きく関与するということだ。ただし、能力(そもそもそれ自体も偶発性に大いに影響を受けているのだが)や努力は持続的成功の前提条件であり、それらなしに成功は持続しないだろう。しかし、「能力があり、努力すれば成功する」という一般論に対して「能力があり、努力はしたが、たまたまうまくいかない」ということもあるのだということ、失敗した人が皆「能力もなく、努力もしなかった」わけではないのだということは念頭に置いておきたい。
 結論として、著者はこう書いている。
「ことの大小を問わず、仕事での成功、投資での成功、決断での成功など、われわれの身に起こることの多くが、技量、準備、勤勉の結果であるのと同じぐらい、ランダムな要素の結果でもある。つまり、われわれが認識している世界は、その根底をなす人間や状況の直接的な表れではない。そうではなく、それは予見できない、あるいは絶え間なく変化する外力のランダムな作用によってぼかされた像だ。能力は問題ではない、と言っているのではない。能力は成功の確率を増す要素の一つである。しかし行動と結果の結びつきは、われわれが願うほど直接的ではない。だから、過去を理解するのは容易ではないし、未来を予測するのもそうだ。どちらについても、表面的な解釈を超えて考えることが有用だ」

『偶然の科学』(ダンカン・ワッツ/ハヤカワ文庫NF)では、さらに社会的領域に踏み込んでいる。
 この本では、まず、偶然の連鎖で引き起こされたような結果でも、人間は後知恵で解釈する強い性向があるために、必然的な因果の結果だったと考えてしまうという認知バイアスを説明している。人間の脳は一つの出来事に対して一つの原因を求めたがるものなのだ。
 さらにつづけて、その認知バイアスが社会生活にどう悪影響を及ぼすか、を述べている。予測しようのない事柄であっても、起きた後でなら「あそこにもここにも兆候があった」と、後知恵で「気づけたはず」とは言えるものだ。そのように、ヒットしたものをもっともらしく要因分析するマーケッターやコンサルを、インチキだと説明している。詐欺師は、偶然を直感的に把握できず、因果関係的な説明を求めてしまう認知バイアスを利用して、偶然を、自分が予測していた通りの結果だと述べて、次も自分の予測通りになると信じさせようとする。もちろん彼らの「予測」は後知恵に過ぎない。
 また、統計データについても、人は、先入観を裏付ける証拠や、有意性を見出そうとしがちなので、自分の物語(思い込み)を強化させるものとして解釈してしまいがちだ、と言う。
 そして、そういうバイアスによって、「常識的な知恵」(専門家の予測も含めて)が、私達の日常の選択から政府の政策まで支配している。その結果、様々な誤った選択が繰り返されてしまうということを、具体例をあげながら述べている。
 しかし、実際には、「出来事はそれが起こる明確な理由がなくても起こる」ものだ。(エール大学の社会学者チャールズ・ペローが提唱する「ノーマル・アクシデント理論」)例えば、同じような事業を行う会社が多く参入した場合、どこかの会社が小さな幸運によって徐々に売れ始め、やがて大きなシェアを獲得するということが生じる。つまり、必然的な原因がなくても、偶発的に起こる出来事の積み重ねで、最終的に大きな結果を生み出すということが起こるのだ。他方、偶然小さな不幸が積み重なった結果、大惨事につながることもある。
 この本では、過去に起こったことの延長上に未来を予測することはできない、そして、必然的因果関係を求めたがる認知バイアスには注意するべきだと結論付けている。
 ここまでをまとめてみる。自分がこのような形で「いま・ここ」にいるのは、偶然が関与した結果であり、成功や失敗を含め、様々な事象には偶然性が関与していることが多い。従って、未来の予測を確実性をもって述べることは不可能だ。先に紹介した竹内啓は「確率論でリスクを管理したり、合理的意思決定論で不運を消滅させることはできない」と言っている。しかし、人間の認知バイアスはそれを認めたがらない、それが問題である。
 これらを踏まえて、さらに論を進めていこう。
 成功した人がその成功には偶然が作用した、ということを実感できるとどうなるか。なかなか認めたくないという感情をおさえて、自分の成功が偶然の結果だと実感できれば、人が成功していないのも偶然の結果であると認識できるだろう。人には結果しか見えないので、成功者は理由があって成功したのだから成功にふさわしい人間だが、失敗した人は能力もなく努力もしていないのだから常に失敗するような人間だ、と決めつけがちだが、実はそうとは限らないのだ、ということだ。すると、多少なりとも偶然に感謝する感情が生じることになり、それが社会意識に反映されると、所得の再分配、つまり累進課税や富裕税、への反発が減ることになるだろう。感謝の気持ちは人を寛容にするものだ。成功は自分の努力と能力のたまものだと思い込んでしまうと、それを努力も能力も足りないものに分配するなどとんでもない、と感じるだろうが、「たまたま」の結果だと実感し偶然に感謝できれば、多少は許容できるはずだ。つまり、成功者が「自分は偶然運がよかったのだ」、と実感できるようになることは、格差を必然としない考え方の広がりを生むはずだ。成功者のほうが発言力もあるのだから。もちろん「はず」なだけで、未来のことであるから実際にそうなるとは断定できないし、人間の身勝手さを考えると希望的な主観にすぎないかもしれない。しかし、一面の真実ではあると思う。
 さらに、失敗したと見なされている人たちが、自己責任という重荷から多少は解放されることになる。自分ではどうしようもない偶然性が関与しているのだから、自分が全責任を負う義務はないと感じられるからだ。また、周囲がそう考えられるようになれば、より救われることになるだろう。失敗した人は失敗したことそのものよりも、失敗に向けられる周囲の目に苦しめられることが多いからだ。いつまでも失敗にとらわれ、自分を責め続けるのは適切な反応ではない。「こんなはずじゃなかった」といつまでもくよくよしているよりも、自分の想定を妨げる、自分ではどうしようもない偶然があったのだから仕方がない、と考えて、結果を受け入れてしまうほうが楽になれるだろう。その失敗こそが次の成功につながる可能性もあるのだ。(「人間万事塞翁が馬」ということわざもある)もちろん、しつこく念をおしておくが、これは、努力をしなかったことを正当化するものではない。
 また、現代、息苦しさを感じているとすれば、視野の狭さが一つの原因だと考えられる。自分のいる場所の外部を想像できなくなっているということだ。しかし、自分が今の状態になっているのも、偶然の結果なのだとしたら、今の環境が必然なのではないと感じられ、異なる環境、異なる世界のあり方も想像できることになるだろう。(パラレルワールドの話に展開したい誘惑は抑えておくことにする……)
 未来のことについて、偶然が影響すると思えば、人は努力を投げ出してしまいそうだが、それは賢明ではない。過去については、反省すべき点は反省しながらも、よかれあしかれ偶然が関与した結果だと受け止め、未来については、偶然が関与するにせよ努力することが成功の前提条件なのだと考えるという、矛盾を方法論的に認めてしまう思考法をとると実践的だろうと思う。
 さらに、これまでこの連載コラムで、ノイズがあるからこそ世界は豊かなのだ、と述べてきたが、偶発性があるからこそ、世界は多様になり、豊かなものになるのだ、とここに付け加えることにする。たとえば生物の多様性は、先に述べたように偶発的な突然変異の結果だということを考えると明らかだろう。
 また、偶然に出会うことは不運であれ、幸運であれ人生を豊かなものにする可能性がある。「犬も歩けば棒に当たる」ということわざがあるが、棒に当たることはラッキーなことかもしれないし、アンラッキーなことかもしれない。しかし、歩かなければ棒には当たらない。不運に出くわすことを恐れて歩くのをためらうよりは、とりあえず歩いてみるほうが当たる棒も増えるだろう。IBMのトーマス・ワトソンはこう言っている。「もし成功したければ、失敗の割合を倍にしろ」
 過去の偶然性を積極的に受け入れたほうが、今を肯定しやすいだろうし、未来を確定したがるよりも、未知の世界に足を踏み入れていく方が楽しいだろう。人であれ本であれ芸術であれ、ランダムな出会いを求めて、新たな地平へ踏み出してみよう。
「現代は確実性追求の時代と考えなければならないが、偶然は想像力を刺激することで人生をより豊かにする」(竹内啓)

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