西きょうじ「そもそも」
2017/09/08

第二十回 与太郎がいなくっちゃ、ね

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 二〇年以上前になるが、軽井沢に転居してきたとき、様々な軽いカルチャーショックを受けた。引っ越し早々に近所の人に「となりぐみ」に入れと言われ、いまだにそういう言葉を使うからには村八分もあるのだろうなと脅えた。だが、意外に普通の町内会のような感じだとわかって安心した。他にも庭を放置していると「雑草を刈れ」というメモが郵便受けに入っていたのをみてぎょっとしたり、雪が降った日に、庭に雪だるまをつくってみると、次の日にはなぜかニンジンが刺さっていたり。もちろんニンジンはありがたくいただいたが……。なかでも深く記憶に刺さっているのが、「泥ペン」の話だ。
「泥ペン」というのは、地元のペンキ屋さんのあだ名なのだが、この男はペンキを塗る仕事ついでに仕事を依頼された家や会社に忍び込み、金品を盗む。何度か逮捕勾留されたらしいが、釈放されて普通に暮らしている。顔を見るとその人が「泥ペン」だとわかるほど面は割れている。それでも、仕事がなくてはかわいそうだと思うのだろうか、仕事を頼む人もいる。そして、やっぱり何かを盗まれる。近所の人も「泥ペンに仕事頼むなんて」とか言いながら、大して大ごとだと思っていないようだった。この話は私にはけっこう衝撃だった。「あのひと泥棒だよ」と指さしながらも、周囲もその存在を許容している、少なくとも町から追い出そうとはしない、のが不思議極まりなかった。
 一方、現代の日本社会は、特に都会、あるいはネット社会では、他人に対して寛容ではないように思う。
 たとえば、ベビーカーを押して電車に乗ることへの拒否感を表明する人もいる。さらには、子どもの声を騒音として幼稚園を近所から排除しようとする人さえ少なくない。自分も昔子どもだったことや、自分が社会のつながりの中に存在していることを見失い、自分の現在の損得勘定によってのみ判断し、それが正当だと考えている。心にゆとりがないので、いらいらすることが増え、自分のことに精一杯で想像力を広げることができなくなっているのだろう。この社会風潮は経済格差(貧困)や将来への予測不能感が背景になっているものと思われているが、不寛容な態度はむしろ経済的に余裕のある中高年に見られることが多い。幼稚園を排除しようとしている人たちの多くは、子育てを経験し終了した世代であったりする。もちろんこのような不寛容は常に対立と排除を助長し続けることになり、自分自身も生きづらい社会を形成していくことになるはずなのだが……。

 ネット社会では、フィルターバブル(検索結果が自分用にカスタマイズされていき、目にする情報がますます自分の好みのものに限定されていくこと)の影響もあって、自分と似た考えの集団に閉じこもりがちになる。その結果、集団は分断され、自分が帰属する以外の集団の声を聞くことさえ拒否したまま、相手を罵倒するという局面もよく見られるようになっている。またそうすることによって、ますますその集団への帰属意識が高まる。その結果、「敵か味方か」という貧困な対立思考から抜けられなくなってしまっているのだろう。ネット社会においても、いわゆる炎上を起こしたり極端に攻撃性の強い排他的な発言をするのは貧困層というよりも比較的お金のある層だ、と言われている。(参考『ネット炎上の研究』田中辰雄・山口真一/勁草書房)予測不能性の高い社会の中で、自分の現在の位置を脅かす可能性があるものは排除してしまいたいのかもしれない。もちろん、ネット社会はリアルな社会と切り離されているものではない。
 たとえば、都議選では、応援演説に現われた首相に対して、ネット情報によって集まった人たちが「帰れ」「やめろ」コールを行う、それはその場にいる人たちにも波及していく、その声に対して首相が「こんな人たちに私たちは負けるわけにはいかない」とヒステリックに反応するという場面があった。もちろんそれぞれに言い分があるのだろうが、いずれにせよ不毛な対立である。そうせざるを得ない切迫感には共感する部分もあり、またそれぞれの立場を考えると、どっちもどっちと言って済ませられるような問題ではないだろうが、それにしても、ゆとりのない姿勢である。
 ゆとりがない、言い換えれば、ユーモア(笑い)が足りないのだ。米カリフォルニア州知事選に出馬していた俳優アーノルド・シュワルツェネッガー氏が、大学で開かれた支持者集会で反対派から生卵をぶつけられたとき、汚れた上着を脱ぎ、シャツ姿で「州政には変化が必要」と学生らに訴えたが、演説後、記者団に対し、卵の一件は「表現の自由」の一環だと述べ、「ついでにベーコンもくれよ」と言ったという。「ベーコンもくれよ」というユーモア、笑いは、政治的課題から逸脱するように見えるが、社会の中では重要な役割を果たしうる要素だ。
 対立・排除から笑い(ユーモア)・包摂へ、というのは、対立している両者が、互いに相手を拒絶してしまい、交通も失われ解決不能になっている膠着状態を、柔らかくほぐし、あらたな方向を提示する導線となりうるだろう。「笑うこと」こそが、そのキーワードになるかと思う。
 話題を変える。今回「笑うこと」をテーマにしようと思ったのは、最近、偶然、噺家の方と出会ったからだった。自分もよく出させていただいている下北沢のB&Bのイベントに行ってみると、そこで落語を披露しトークをしていた柳家東三楼という噺家が昔の生徒だったとわかった。こういう偶然は大切だと思って、そのあと落語に積極的に触れるようにしてみた。今、改めて落語を聞いてみると、昔、感じていたものと違うものを感じる。落語では、噺家が様々な登場人物のセリフを一人で演じながら物語が進行していくが、その間の取り方、話術によって、こちらの注意が途切れることはない。ところどころに爆発的な笑いが生じるが、その笑いには常に温かみが伴う。この温かみは若い時には感じていなかった要素だ。どうも落語の笑いには現代社会の閉塞感を解きほぐすヒントがあるような気がしてきた。
「笑い」といえば、テレビのバラエティ番組にもあふれていると指摘されるかもしれない。私自身、そうした番組を目にすることが少ないので、間違えているのかもしれないのだが、そこでの笑いはlaugh at~(~を笑う)にあたるものが多いのではないか、と思う。「誰かを」笑う、あるいは自虐的に自分をネタにして「自分を」笑ってもらう。その流れに従って群れをなす、あるいはあえて逆張りしてみてポジショントークをする、というような場の空気感に依存した笑いの喚起が支配しているように感じる。
 落語家の桂歌丸が、裸でお盆をもっていろいろな動きを披露する芸人(アキラ100%)について、こう言っている。「言っちゃ失礼ですけど、裸でお盆を持って出てきて、何が芸なんですか?と。私は違うと思うな。ああいうのを見て、面白いな、うまいなと思われちゃ困る」さらには、「日本語であり、日本の文化であり、日本の言葉を使って、笑いを取るのが芸人であり、我々、噺家だと思います。だから、大いに日本人に聞いていただいて、日本語を理解していただきたい」と。落語家が日本語を大切にする気持ちはわかるが、それだけが芸人だという認識は視野が狭すぎるだろう。英語で落語をやる噺家も出てきているし、話術以外の芸もあるだろう。とはいうものの、自分自身、アキラ100%を見たことがなかったので、いくつかその芸を見てみた。パフォーマンスのレベル自体は、中国雑技団にははるかに及ばないが、そこではなく「裸でお盆」というのがポイントなのだろう。下品だという批判もあるだろうが、それはここでは問題にしない。注目したいのは、それを見る人の反応が、レベルの高いパフォーマンスを見たときの驚きや称賛ではなく、「よくこんなことやっているな」という嘲笑交じりの拍手ではないか、ということだ。つまり、観客は彼「を」笑っているのだ。(やや話はずれるが、空気をまったく読まずに自らを笑いのネタにしてしまうような存在を拒絶するならば、つまり、お笑いの世界から異物を排除しようとするならば、おおらかな「お笑い」らしさを損なうことになるかもしれない)
 落語の場合、観客が噺家「を」(指さし)笑うことはない。笑われるのは話の中の人物の言動か、あるいは噺家から発せられる言葉そのもののおかしさだ。さらに、愚かしい登場人物を演じる噺家はその愚かしさを否定しない。笑いのネタにしながらもその存在を温かく受け止めている。登場人物たちも「ほんとに馬鹿だねえ、お前は」といいながら、相手を許容している。観客も同様で、寄席全体の空気は、laugh at~(~を笑う)ではなく、laugh with~(~と共に笑う)というものになる。声を出して笑うことは、個人の健康レベルをひきあげる効果があるというのは、もはや自明なことだが、ともに笑えることは集団全体の健康レベル(健全さ)をひきあげることになるだろう。
 江戸落語には「与太郎噺」というジャンルがある。非生産的で社会的適応性にかけた男(通常のんきで楽天的で頓珍漢で何をやっても失敗する。「与太郎」という名ではない場合もある)をネタにする話で、その種類は多々あるが、概して爆笑場面がとても多い。ラストに来る落ちは、ばかばかしいものが多いのだが、途中の、間の抜けた、そして意表を突く与太郎の反応に笑い続けるものだから、すでに落ちの前に笑う態勢が整ってしまっているので、ちょっとしたものでも爆笑してしまうのだ。
 落語における与太郎は、一見、シェイクスピアのクラウン(道化師)のような役割を果たしているように思われるかもしれないが、歴然と異なるものだ。クラウンはいわば世界外存在として、この世界を戯画化する。世界外存在である以上、権威に逆らっても王に罰せられることはほとんどない。罰せられるのは王が王としての正気を失った時だ。クラウンは超越的視点を社会内に取り入れ、社会を異化する装置となりうるものだが、与太郎はあくまでも社会内の存在である。超越的視点をもっているわけではなく、ただ周囲とズレているのである。そして失敗するたびに叱られ、あきれられ、笑われることになる。しかし、まったく周囲の空気を読まないだけに、常識にもとらわれず、無意識のうちに物事の本質を突く発言をすることもある。超越的視点ではなく、いわば上にではなく横にズレることによって、無意識のうちに、常識的束縛から生じる閉塞感に風穴を開けるというのは、日本的(江戸的)なあり方だと思うし、現代において必要な要素だと思う。
 有名な与太郎噺を一つ紹介しよう。「かぼちゃ屋」という噺がある。(二五〇年前の噺だが、噺家によって様々に脚色され、時代と共に変化していくのも落語の面白いところ。一つの噺を時代順に味わうと文化の歴史的側面も見えてくる。ギャグの入れ方も様々だが、以下のギャグは五代目柳家小さん以降のもの)
 内容を説明すると、二十歳になっても仕事をしないでぶらぶらと遊んでいる与太郎に、叔父さんが「かぼちゃ売り」をさせる噺で、叔父さんが何とか仕事をさせようと与太郎を説得する場面がある。与太郎は、「あたまに霧がかかった」ような男で、なにをやらせても、事をおかしくさせてしまう。以下はその二人の会話。

「おまえももう二十歳(はたち)だよ」
「裸足でねえ。げた履いてきた」
「お前の歳のことだよ」
(この「二十歳のこと」をハタチという、というフレーズはあとにも生かされることになる)

 他にもこんなバージョンがある。

「だいたい、遊んでちゃ飯が食われないぞ。なんで飯を食うか知ってるか?」
「箸と茶碗」
「そうじゃないよ……」
「あ、ライスカレーはシャジで食う」

 文字で書き起こすと、あまり面白さが伝わらないが、実演を見ると、その間の取り方、話し方が実にうまくて、不覚にも爆笑してしまう。この会話のずれ方にユーモアが生じているわけだが、相手の言葉の意図とはまったく異なる解釈の返答をする。(が、最近の国会答弁に見られるように相手の言葉の内容を意図的に無視しているわけではない)本人には相手の言葉尻を捕らえるような悪意もなく、ただ相手の言葉を自分の尺度で判断して反応しているのだ。
 もちろん、行動もことごとくずれている。たとえば、原価に上乗せして売れ、という意図で「上を向いて売れ」と言われるのだが、与太郎は本当にただ「上を向いて」(空を見て)売る。こうしたズレが生じるところにユーモアが生まれ、対話の効率性、行動についての人びとの予測が無化されていくことになる。しかし、対話を屈折させられた側も、あきれながらも与太郎を受け入れる。予測不能な事態に動揺して判断不能になったり、相手を糾弾したりしないのだ。
「かぼちゃ屋」では、家の柱を与太郎に傷つけられてしまった男が、与太郎のあまりのあほさを見るに見かねて、代わりにかぼちゃを売ってやることにする。すべて売り切った男が与太郎に「売ってやったんだからありがとう、くらい言え」と言うと、与太郎は「どういたしまして」と返答して帰っていく。わけのわからない与太郎だが、再び与太郎が家を訪れても男は拒絶したりしない。
 このずれ方と許容の仕方が、対立を緩和し、あらたな関係性を生むことに役立っているわけだ。売り言葉に買い言葉はむなしく空転するばかりだが、予期せぬ(珍奇な)解釈は、売り言葉を対立とは異なるフェーズのものへと変容する。このコラムでもノイズの重要性、働かないアリの意義などを繰り返し述べてきたが、与太郎的な存在は予定調和を破壊しながら、社会全体を転覆させるのでもなく、一見堅固に構築された構造に遊びを生み出していく。ゆとりのない対立構造をほぐしていく可能性を帯びるわけだ。

 与太郎を排除してしまわないような社会こそが、つまり「泥ペン」にもそれなりに居場所を与えるような社会にこそ、懐かしさばかりではなく、新たな可能性も見出せるのではないか、と思う。社会の健全さのためには、与太郎がいなくっちゃ、ね。

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