西きょうじ「そもそも」
2017/11/03

第二十二回 あなたの居場所は?

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 子どものころに「妖怪人間ベム」というテレビアニメを観ていて、毎回とても恐ろしい思いをしていた。ほかの子ども向けのアニメとは比べ物にならないくらいリアルなホラーで、国籍不明感が支配していた。二〇一一年に実写化されたテレビドラマを観た時には恐ろしさも国籍不明感もまったく感じられないものになっていたが、そこには現代的なテーマがはっきりと描かれているように思った。アニメでは、登場する妖怪人間三体は、科学的に作られた存在だが、人間を助ける為に悪者と戦い続ければ、きっといつの日か人間になれる! という強い信念で様々な妖怪と闘い続ける。「はやく人間になりたい」というのは、当時流行語だったように思う。しかし、最後は人間に殺されてしまう(死んだかどうかはわからないが)、という話だった。一方、テレビドラマでは、人間の中に潜む悪を導き出す妖怪と闘うことになる。このドラマでは、人間社会の中に彼らが居場所を見出せるのか、というテーマが貫かれていた。人間を助けて感謝されても彼らの正体を知ると人間は彼らを排除しようとする。結局、妖怪人間三体の家族的なつながりの中にしか居場所は見つけられないのか、あるいはつながれる人間を見出せるのかという話だったように思う。人間の中に潜む悪と、マイノリティ集団の排除の話だった、ということもできるだろう。
「居場所」というのは、現代においてとても重要なテーマだと思う。生まれながらに居場所がほぼ確定していた時代には、窮屈で不自由ではあったけれど、自分で居場所を探す必要はなかった。窮屈さ、不自由さに堪えかねる人たちだけが、リスクを冒してでも新たな居場所を求めたのだった。あるいは、家族や会社が無条件に安定した居場所となっていた(ように見えていた)時代においても、居場所は比較的少数の人にとっての問題だっただろう。「ここは自分の居場所じゃない」「自分の居場所はどこにあるのか?」ということを強く感じていたのはバブル期頃まではマイノリティだった。「ここではないどこか」に行けば自分が見つかるだろうという「自分探し」は、戻れる場所があると思えるからこそ実行可能な、経済的にひっ迫しているわけではない人たちの、切実な現実感を欠くゲームに過ぎなかった。(いまだに「本当の自分」なんてものを探しているような人もいるが……)
 しかし、現代は「ここが自分の居場所だ」という安心感を得るための努力が必要な時代になりつつある。とりあえず、周りに合わせておけば居場所が保証される、というわけではなくなったのだ。家族や会社、国家がその成員に経済的安心感を与える余裕を失ったからなのかもしれない。経済的不安感と、人口増加時代から少子高齢化へという変化による社会制度の弱体化が根底にあるのだろう。
 ここまで「居場所」という言葉を漠然と使ってきたが、この文章における定義をしておくことにしよう。私が言う「居場所」とは単に、「自分がいる場所」ではなく、「自分がそこにいることが周りに受け入れられている場所」「自分はここにいていいのだ、と思える場所」のことだ。その定義に従って考えてみると、家庭、学校、会社を「居場所」と考えられない人が増えているといえるだろうし、国家を生きづらい場だと考える人も増えているだろう。
 そもそも、多くの人は生まれた時にはそれぞれの居場所が与えられていたはずだ。母親からの無条件の愛情を受け取っていた人であれば、自分には愛される価値があり、自分を守ってくれる場所があるという経験をしてきたことだろう。条件付きではない愛情を実感したかどうか(意識化していないにせよ)、何もできない自分がそのままに全面的に受け入れられた経験があるかどうかは、自己肯定感の有無につながり、居場所問題の根源に関わっているといえるだろう。「~だから愛する、~だから好き」なんていうのは、~でなくなると愛さないし好きでもなくなるわけだから、そこに絶対的信頼はおけない。条件付きで居場所を与えられている状態だと、条件を失うと居場所を失うことになるのだ。しかし、今はひとり親の増加という社会的状況や貧困世帯の増加という経済的状況もあって、幼児期に親が常に近くにいて絶対的な居場所を与え続けるというのは難しい家庭も多い。
 無条件の居場所というものを体験したことのない人は、次の段階で、居場所を自分で見つけることが困難になる。また、幼児期に無条件の居場所を与えられていた人も、前者よりは困難ではないにせよ、いずれは自分で居場所を見つけることが必要になる。ホームベースというべき、どこに行っていたとしても戻って来られる安心できる居場所は、人が安定して生きていくためにはあったほうがよい。が、おそらく絶対的な永続的な居場所は見つからないだろう。社会も人間関係も変化していくものだからだ。だから、とりあえず持続可能な居場所を自分で見つけていく、作っていく必要がある。居場所を見つけられない人、つまり孤立しそうな状況にいる人には、居場所となる可能性のある場を提供することも必要だ。孤立が現代の大きな社会問題である以上、孤立しそうな状況にいる人に居場所を提供することは、その人にとってだけでなく社会にとっても健全さを取り戻すことになるからだ。
 仕事をしているならばその中で気の合う仲間といる居場所をとりあえずは見出せる。また、現代は、好きなことを通じてネット上でつながることも容易だということを考えると、趣味的な部分における居場所をつくることもできる。実際には一つの居場所に固執するのではなく、自分を複数に分けて、複数の居場所を確保しておくほうが、リスクヘッジにもなるし、自分の成長の機会を多く得ることになる。うまくいかなくなったら別の居場所に行くこともできる。概して、居場所が一つしかないと、逃げ場を失ってしまうから、関係性がうまくいかなくなってもその場にとどまり続けなければいけないと感じてしまい、ストレスを増大させてしまう。たとえば、学校という閉鎖した社会だけを居場所にしてしまうと、その中の空気にあわせることがその集団内における最上位タスクとなってしまい、いじめが起これば、それに同調することが求められてしまうことになる。小中学生の場合、ほかに居場所を作ることが難しいので、集団の環境によってはいじめの被害者か加害者にならざるを得なくなり、傍観者や抑止者の立場をとることはできなくなる。傍観者や抑止者の立場をとることは次の標的にされることに直結しているからだ。会社のパワハラも同様だが、大人の場合、他の集団に居場所を見出すことは子どもの場合よりは容易なはずだ。今いるところの外部に居場所を見つけることが可能であるという実感は、今の時代を生き抜く方法としては大切だ。
『ここは私の居場所じゃない~境界性人格障害からの回復~』(レイチェル・レイランド/星和書店)という本の中で、精神科医が境界性人格障害の患者である著者に言う言葉を紹介しよう。
「私が望んでいるのは、選択肢があるという事実にあなたが心を開くということです。(中略)いつでも選択肢はあるのです。そして、それぞれの選択肢には結果が伴うということです。今いる場所にとどまったらどうなるか、引っ越したらどうなるか、それぞれに結果があります。本当に身動きできない人などいないのですよ、レイチェル。自らそうなりたいと望まないかぎり」
 そのあと、彼女は引っ越すことになり、紆余曲折を経ながら、仕事を得、仕事の場に新たな居場所を見つけ、さらに自分にとって最も大切な居場所は家族だと改めて実感することになる。また、サイバースペースで、同様の病気を抱えた人、克服した人とつながることになり、自分の体験は一人だけのものではないと実感するようになる。そして、自分自身の経験を語りながら、同様の状況にいる人を元気づける役割まで果たすようになり、この分厚い本を書き上げることになるのだ。

『持たない幸福論―働きたくない、家族を作らない、お金に縛られない―』(pha(ファ)/幻冬舎文庫)という本がある。この本の著者は会社で働くことをやめて、自分が幸福に過ごすために大切なものは何か、を考察している。著者はこういう。
「会社や家族やお金に頼らなくても、仲間や友達や知り合いが多ければわりと豊かに暮らしていけるんじゃないだろうか。生きていく上で大事なのは他者との繋がりを保ち続けることや社会の中に自分の居場所を確保することで、仕事や会社や家族やお金はその繋がりを持つためのツールの一つに過ぎない」
「家族」がツールという点は、同意しかねるが、家族というシステムに責任をおしつけようとする最近の政府の方向性は明らかに時代を逆行しようとするものだと思う。家庭内暴力であれ、介護であれ、ひきこもりであれ、家庭内の問題に外部が関与する必要が生じているのが現代であり、また一人世帯が急増している時代においては、家族主義の復権によって問題を解決できるものではないのだ。学校内のいじめの問題も同様で、すべての責任を学校におしつけ、さらには学校が外部を遮断してしまっているという状況では、問題解決は難しいだろう。
 話を戻そう。pha氏のいう「居場所」はどちらかというと弱いつながりによって見出す場である。弱いつながりは新たな可能性の提示になる、とはよく言われている話だが、弱いつながりをつくることは、とりあえずの居場所をみつける、自分では思っていなかった場を居場所にするきっかけにもなりうる。そういう点で、ひとところにとどまらず、むしろ外に出ていく機会を増やすことが自分が戻ってこられる居場所を増やすことにつながるわけだ。結論としては、好きなことや仕事や今の友達を通じて、複数の居場所を作っておこうということになる。それはリスクヘッジにもなるし、自分の居場所があると思えることが自己肯定感にもつながってくる。まずは多くの弱いつながりを作ることが出発点になる。しかしひとたび居場所を得ても、生きていく中で居場所の更新も必要になるだろうし、そのためには外に出かけていく機会を持ち続ける、つまり、好奇心を持ち続け、行動し続けることが必要になる。
 私自身、居場所を見出す可能性として目を向けているのは、「ナリワイ」的発想だ。(『ナリワイをつくる―人生を盗まれない働き方―』〈伊藤洋志/ちくま文庫〉拙著『仕事のエッセンス』でも紹介した)これは個々が技術を持ち、それをコミュニティ内でギブアンドテイクすることで、経済的安定性を確保し、コミュニティをセーフティネットワークにしながら居場所を作っていくというありかただ。ここでいう技術は、たとえば床張りのようなちょっとした家の修繕であったり、PCを教えるといったことで、専門技術というようなものである必要はない。個々の作業の収入は少なくても、いくつかやればある程度の収入にはなるし、コミュニティ内で互酬原理が働くので生活しやすくなる、というのが「ナリワイ」の発想だ。伊藤氏はさらに『フルサトをつくる―帰れば食うに困らない場所を持つ暮らし方―』というpha氏との共著でも居場所をつくる方法を具体的に提示している。もちろん皆がそうするべきではないし、皆がそうできるわけでもないだろうが、居場所がみつかりにくい人や、現代の競争社会には違和感があるというような人にとっての生き方として、これもありなのだと思っている。非戦闘系の人にとって、競争を強い、勝敗を決したがる現代社会はかなり厳しいものだ。誰にも競争を強いるというのは高度成長期的な価値観で、今や「競争よりも共生だ」という価値観も強く訴えられており、ナリワイをベースに居場所を作って共生を目指すという選択肢も非現実的なものではない。「共生を強制する」閉じた環境が現れることには、恐しさを感じるが……。
 そうはいっても、pha氏であれ、伊藤氏であれ、こういう考え、行動に至るには長い時間が必要だったし、それまでの段階で両者ともきわめて高いスペックを身につけていた、ということは言えるだろう。両者とも京大卒だし、pha氏はコンピュータのソフトやプログラミングの知識をベースにギークハウス(プログラミングなどで生計を立てられる人たちのシェアハウス)を可能にしたのだった。そのようなバックグラウンドを持たずに、「ナリワイ的生き方」に転じるのは、今、不本意ながらも企業に勤めている人や、これから社会に出ようとする学生には難しいかもしれない。しかし、パイオニアが先行しているか、いないか、という条件もある。今や、様々な生き方のスタイルが具体的に実践されているのだから、これまでの「あるべき」生き方からの逸脱に対する社会的抵抗は昔よりは軽減されているはずだ。外に出かけてあり方を変えるためには、自分自身の価値観を少し見直してみることが必要なだけだ。本当に自分が大切なものは何か、したいことは何か、したくないことは何か、どういう人と一緒にいたいか、自分が大切に抱えているものは自分の幸福にとって不可欠なものなのか、そういうことを、今の居場所に固執することよりも優先させてみる、そして一歩外に踏み出してみる、そうして自分の居場所を新たに見出してみる、さらに複数の居場所を作っていくことは、恐れているほどリスクの高いことではない。『アルケミスト』(パウロ・コエーリョ/角川文庫)に出てくる名言を引用しておこう。
「傷つくのを恐れることは、実際に傷つくよりもつらいものだと、おまえの心に言ってやるがよい」

 このように自分で居場所を見出すことは重要だが、現代社会の中には非常に不利な環境に押し込められたり、居場所そのものを奪われてしまっているような人たちもいるだろう。マイノリティ集団として孤立させられたり、どの集団にも帰属できず孤立したりしている人たちが、積極的に外に向かうことは困難だ。そのうえ、現代の日本では、このような孤立を余儀なくさせるような社会構造、あるいは自分より弱いものを見つけ出して糾弾するポピュリズム(例えば生活保護世帯への蔑視など)が強化されつつある傾向にあるように思われる。
 自分が望む居場所を得られない人たちが、「自分はここにいていいのだ」「ここが自分の居場所だ」といえる場、あるいはつながりを、社会側が構築していく必要がある。民進党の枝野氏は「競争の結果を個人の自己責任とするというのは政治の敗北だ」という趣旨のことを二〇一七年の民進党代表選で述べていた。競争の結果、運悪く敗北したもの(勝敗と運については本コラム第十九回〈そもそも、ぼくたちがここにいるのは「たまたま」である〉で述べた)に自己責任を負わせて孤立しやすい状態に陥らせてしまうのは政治が悪いのだ、というわけだ。政治の社会責任ということを踏まえた立派な発言だと思う。(それが受け入れられないのが民進党の限界なのかもしれないが……)
 現状のままでは、高齢化によって地域コミュニティが機能しなくなり、孤立しやすい立場にいる人の孤立はますます進むだろう。また、二〇三〇年には二〇〇万人になるだろうといわれている老人の孤独死も放置しておけない問題だ。これは、孤立した個人の問題ではなく、同じ社会内に生きるあらゆる人に関わる問題だ。たとえば、近所や同じマンション内で孤独死した人の腐乱死体が放置されていたらどうか、を考えてみるといい。年齢を問わず、一人暮らしの世帯が増えているが、セーフティネットとして社会が、つながり、居場所を提供しなければ、病気や事故などが起こると経済基盤を失い、たちまち社会的に孤立してしまう、というボーダーライン上にいるケースも多いだろう。
 現在の日本の社会構造と少子高齢化という現実を考えると、いわゆる社会的弱者がマジョリティになるような社会が近い将来に想定されるわけだが、そこでは競争よりも共生が求められることになる。もちろん競争がなくなるわけではないし、現在の資本主義社会が継続するならば、競争がなければ社会は機能しなくなる。競争と共生のバランスをどうとるか、が極めて重要な時代だといえるだろう。
 これは、本来、国や地方自治体が取り組むべき問題ではあるが、実際的には企業やNPOなどの協力が不可欠だ。自分の周りでは、LITALICOという企業が障がいをもつ(彼らは生活上困難を抱えている、と定義し直しており、「障がいのない社会」を目指している)人の教育、社会への情報発信、さらに似た環境にある人たちのネットワークを作っている。あるいは「育て上げネット」では就職困難な立場にいる人たちへの就労支援や少年院にいる人たちの社会復帰応援などをおこなっている。さらには、子ども食堂も様々な地方で広がっているし、東京都の文京区と複数のNPOが連携した「こども宅食」という活動も始まっている。取り上げ始めればきりがなくなるが、こうした団体が増え、互いにネットワークを持ち、社会的認知度を高め、行政と連携するということで、多くの人が孤立感を抱え込まないで済むようなネットワークがあちらこちらに張り巡らされるようになっていくことを願う。自分も、自分にできる範囲での支援をしていきたいと思う。といっても、具体的に自分個人としては、NPOの活動をのぞきに行って募金する、とか、子ども食堂の手伝いと称して子どもと遊ぶ、とか、今のところはそういった地味なことしかできていないが……。
 今回の結論。
 妖怪人間を排除するのではなく、妖怪に人間の姿であり続けることを強要するのでもなく、妖怪村をつくってそこに閉じ込めるのでもない。妖怪が隣にいても、まあ世界ってそんなものだし、それで問題ないんじゃない、という社会構造と社会意識を作っていこう。妖怪にもいいやつも悪いやつもいるだろうし、妖怪であるだけで悪なわけでもなく、人間のほうがよっぽど悪いやつもいるわけだから。妖怪ウォッチで遊ぶ子どもたちがベロ(妖怪人間ベムにでてくる少年のような妖怪)と一緒に遊べるような社会になることを期待しよう。

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