西きょうじ「そもそも」
2018/01/05

第二十四回 身体の動きと心~きわめて私的なコラム~

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 最近、自分にとってはとてもショッキングな事態に見舞われた。といっても種をまいたのは自分であり、自業自得なのだが、因果応報の報いに打ちのめされたのだ。さらにこのことは私の周囲の人をも傷つけることとなってしまった。信頼が裏切られた時の心の傷はとても深い。そんなことはわかっていたはずなのに、どうしてこういうことになってしまったのだろう。
 そこで、これまでの自分の行動やありかたを思い出し、反省しつつ、自分とはいったいどういう人間なのか、について深く考えてみた。抽象的に考えようとするのではなく、自分がどういう行動をとり、どういう言葉を発してきたかを、社会人になって以来の三〇年あまりにわたって、できるかぎり具体的に辿ることにした。あのとき、あの人にこういうことをした、こういうことを言った、その状況はどうだったか、より適切な言動はありえたのか、というように時系列に従って、思い出せる限り思い出していったのだ。その結果、自分には人の心の痛みへの想像力が極度に欠けている、ということがわかった。あの言葉はあの人の心をとても傷つけていたのだろう、違う言いかたもできただろうに、と今ならばわかる。自分がこれまでどれほど人を深く傷つけてきたか、に今更気づき、修正しようもない過去の状況が蘇り、胸に突き刺さってくる。それらが、その都度、どれほど相手の気持ちを傷つける言動であったかを振り返っていると、食欲がまったくわかなくなった。三日間、何も食べられず、水だけで過ごした。その間、誰と会うこともなかった。
 すると、自分の身体の状態に敏感になってきた。先に「胸に突き刺さってくる」と書いたが、実は胸自体には痛みを感じていない。痛んでいるというよりは、胸の筋肉が内側に強く収縮しているようだった。よく、「心が痛む」というが、心とはどこにあるのだろう。自分は今、身体的にどこが痛んでいるのか、ということに意識を集中してみた。すると、胃が、固形物を食べることに抵抗を感じるようになっていて、おそらく縮小しており、小刻みに痙攣し続けていることに気づいた。私の場合、心の痛みは症状としては胃腸に現れるようだ。そういえば、断腸の思いという言葉もある。中国で子ザルを連れていかれた母ザルが、子ザルを乗せた船を追いかけ、何とか船に飛び乗ったがそのまま死んでしまった。その腹を裂いてみると腸がずたずたに断ち切れていた、という話が起源だとされているが、実際にはそれ以前から使われていたらしい。神経性胃潰瘍などの症状は昔からあったのだろう。
 そこで、今回のコラムは、心と身体の相互作用をテーマにすることにした。
 運動と脳について、このコラムでは「行き詰まったらピョンピョン」(単行本『そもそも』第10回)の回で取り上げたが、そこでは運動から脳の働きへの影響をテーマとした。今回の場合は心から身体に影響が及んでいるわけだ。では、身体の動きによって、心は回復するのか。いつまでもこの状態のままでいるわけにはいかないので、自分がこのコラムやほかの著作でこれまでに書いてきたことを、身をもって実験してみることにした。
 まずは笑顔を作ってみた。前歯でペンを噛むと口角が横に広がるが、その顔面の筋肉運動だけでも快感情が起きやすくなるという実験もある。「行き詰まったらピョンピョン」に書いたように、笑顔を作ると、セロトニンが分泌され、それが交感神経を弱め、副交感神経優位な状態を作り、緊張感とストレスが緩和されるはずだ。口角を広げて少し上げてみる。数秒そうしていると、額の温度が低くなり後頭部あたりの血流量が増えるように感じる。こわばっていた表情筋が緩み始め、詰まり切っていた部分が解放されつつあるのかもしれない。
 赤ん坊は生後数週間で笑顔を示すようになる。何かに反応しているというよりは、笑顔になると周囲の大人に守られやすくなるという生存本能によるものだと考えられている。そのことによって安心感が得られるのだろう。それが習慣づけられると、意識的に笑顔をつくることでも同じような効果を得られるものなのかもしれない。
 次に声を出して笑ってみた。これまで私が読んできた文献からすると、有効なはずである。しかし、一人で声を出して笑っている、という行為があまりにもあ
ほらしくなり、続ける気にはなれなかった。声を出して笑うことが健康状態を改善するのは、「ともに笑う」(このコラム第二十回「与太郎がいなくっちゃ、ね」)時なのかもしれない。
 では、発声はどうか。このコラムの第二十一回「音声に普遍性があるならば……」で書いたように、音を選べば、発声による解放感はあるはずだ。顔を上に向けて、「あー」と発声してみる。次に「おー」。音声を出すことによる効果というよりも、首の後ろの筋肉の緊張が抜けて、固まり切っていた背筋も緩む感じがある。血液の循環が良くなっていくのを感じる。
 どうも首をうなだれて、背筋を丸めていたようだ。これは「うつむく」姿勢で、「鬱(うつ)」状態を喚起しやすい。十分な酸素を取り入れにくい姿勢であり、視野も狭くなりがちな姿勢だから、おそらく知的活動も停滞しがちになるだろう。教室で見ていても、姿勢と学力には有意の相関関係があると思う。実際、背筋を伸ばした姿勢とうつむいた姿勢では、選択肢からポジティブなものを見出す能力が異なるという実験もある。うつむいていると、ネガティブになりがちで、ポジティブなものを見出しにくくなるのだ。そこで、
骨盤を立てて、頭頂を天井に向かうように座りなお
してみる。視野が広がって、部屋が明るく見え始めた。
 背筋を伸ばし、肩を後ろに引くと、横隔膜が広がって、取り込む空気の量が多くなる。今度は呼吸の仕方を変えてみよう。とても浅くなっているはずだ。以前、「都会の人は呼吸が浅い」と『越境へ。』(亜紀書房)という本に書き、それを朝日新聞朝刊の「折々のことば」(鷲田清一)で取り上げてもらったことがある。呼吸が浅いと苛立ちやすくなり反応も脊髄反射的なものになりがちだ。だからすぐにキレやすくなる。深呼吸をしながらキレる人はいないだろう。ストレスによって緊張が生じ呼吸が浅くなると、今度はその呼吸の浅さがストレスを高めることになる。心から身体へ、身体から心へという悪循環のフィードバックが生じがちなのだ。そこで、まずは深呼吸をしてみた。深呼吸をしろと言われると、空気を大きく吸うこと(吸)から始める人が多いのだが、呼吸と書くようにまずは呼び込む準備から始めるべきだ。中にあるよどんだ空気をできる限り外に吐き出す、そうして初めて新鮮な空気をたっぷりと吸い込む準備ができる。大きく息を吸い込むと指先に血がめぐっていく感じがする。そして吸い込んだ空気をゆっくり長い時間をかけて吐き出す。体の外の空気を大量に取り込み吐き出すことで、閉塞感が解消されていく。
 そろそろ椅子から立ち上がってみよう。そういえばずいぶん長く椅子に座っていたようだ。立ち上がって大きく腕を上にあげて、ゆっくり息を吐きながらおろす。縮こまっていた筋肉が伸ばされ、体が覚醒していくのを感じる。萎縮していた筋肉を伸ばした後は、弛緩させよう。そこで登場するのが野口体操だ。以前、講演会でこの体操の創始者野口三千三の言葉(主に著書『原初生命体としての人間』〈岩波現代文庫〉から)を紹介しながら、これは現代人が失いつつある考え方であり、原初を取り戻す実践だと説明したことがある。今、本格的にやるほどの気持ちにもなれないので、簡単にできる(とはいえ、脱力し、無意識に身体をゆだねられるようになるには練習が必要だ)「ゆるゆる体操」をやってから「ぶら下げ」(これはYouTubeなどを参照してほしい。言葉では説明できない。初めて見るとかなりあやしいものに思われるだろう)をしてみる。重力を利用しできる限り脱力し、自分の意志で体を動かそうとしないで、無意識に身体をゆだねる。時に、重心を動かすことで身体を少し揺らしてやり、あとは身体が自然に動こうとする方向に逆らわない。脱力して無意識に身体が動くようにすることで、筋肉を弛緩させていく。しばらくやった後で、直立してみると足の裏がしっかり地面をとらえている、つまり「地に足が着いている」状態が体感できる。
 頭も体もかなりすっきりした。地に足が着き、視野が広がった感じだ。やはり身体の動きは心に大きな影響を及ぼすようだ。もちろん問題が解決したわけではないが、見える景色が違ってきた。やはり身体の動きが心に及ぼす効果は絶大だった。今回はピョンピョンはねたりはしなかったが(その気力がなかった)、「行き詰まったらピョンピョン」は正しかったのだ。
 ところで、心と身体の動きが相互に作用することは明らかだが、そもそも、その相互作用はどちらが先に生じるものなのか考えてみる。ここからは『動きが心をつくる』(春木豊/講談社現代新書)を参考に話を展開することにする。これは身体心理学という分野になる。(同書には先に私が行った笑顔、発声、呼吸、姿勢、筋肉の弛緩の効用も説明されている)同書では、進化過程において身体の動きが先行して脳が生じたのだ、と述べている。
 日常生活の中で、緊張して不安になると無意識に筋肉がこわばるが、意識的に筋肉を弛緩させると緊張がほぐれる、というように考えると、心の動きが先行しているようにみえる。しかし、腐った食べ物を目の前にすると、嗅覚がそれを察知し、その食べ物を拒否するために、無意識に顔をしかめる反応をする。この表情が嫌悪という感情を生む。これは対象への反応が動作となって表れ、それが感情を生んでいると考えれば、対象に対する身体の動き(表情)が感情を生んでいる(心に影響を及ぼしている)と言えるだろう。感情が表情に表れると思われがちだが、まずは表情の動きという顔面の筋肉運動が生じ、それが感情(心)を生んだのだと考えることもできる。
 表情は顔面に表れるものだが、顔面には感覚器官が集中している。顔は解剖学的には、腸の先端と様々な器官から進化したもので、いわば内臓であり、内臓頭蓋と呼ばれている。つまり、そもそも、不随意筋である内臓筋からなっていたわけだから、意志とは関係なく反応する。その後、体壁系筋肉も加わって随意筋も生じてきた。その結果、顔面の動きは不随意筋と随意筋から成り立っていることになる。つまり、無意識に表れる表情と意識的に作る表情があるということだ。進化過程から考えると無意識に表れる表情が先だったということになる。そして、無意識に表れる表情が感情を生んでいったとも考えられる。そう考えると「楽しいから笑うのではない。笑うから楽しいのだ」(ウィリアム・ジェイムズ)という言葉もすんなり受け入れられるだろう。
 大雑把に言うと、そうした様々な感覚器官の反応が複雑になるにしたがって、それらを整理・統合する必要が生じ、またそれらを意識的に利用するようになっていくのに脳が必要になったのだということらしい。同書には「『始めに末梢の身体ありき』であって、中枢の脳があったのではない」、さらにここでいう身体とは「経験するのは動きであって、物質ではない」と書かれている。また、「脳は進化の後半から生まれたのであって、多くの動物は脳なしで充分に生きてきたし、生きている」とも述べられている。
 そう考えると、「感覚は越境する」(単行本第9回)で述べた、脳の機能分化の不完全さも納得がいく。(機能分化の不完全さとは、視覚は視覚野だけが担うのではない、というようなことだ)様々な感覚が無秩序に入力されることに対して、入力情報を整理するために脳が生まれ、出力の効率を高めるように発達したということになるからだ。そもそもそれぞれの感覚に対して分化した脳があった、というわけではないの
だ。

 では心とはどうとらえればよいのだろう。同書では、脳のみを中心とした研究に対する批判として「中枢である脳が重要であり、脳のことがわかれば、心の問題はすべて解決するとの信念すら育まれつつあると感じられる」と述べている。その上で、こう結論付けている。

 身体があって心が成り立つと考える。しかもその身体とは、従来から無視されてきた身体の動き(行動)に焦点を当てるのである。(中略)心は身体の動きから生まれてきたと考えるからである。
 そのようにして生まれた心の原初的なありようは、身体の動きから生じる感覚である。そしてその感覚は同時に心の根底を支えている気分や感情となる。

 また、心と脳、つまり知と同一視する傾向に対しては、以下のように述べている。

 心は知のみではないということである。心には情という側面もある。
 情には気分、情動、感情、情緒、情操などと微妙な差異があるが、いずれも心の表れを彩るものである。知は論理の正確さを信条とするが、情は感動や実感をもたらす。これらがあいまって実感のある心を体験できるのである。

 私自身としては、心は知ではなく情の側だと考えているので、この言説にはやや違和感がある。しかし、感覚器官の動きから感情が生まれ、それが反復される中で心が形成されていく、というのはとても納得できる。英語では感情を表す動詞の多くは主体の中から生じるよりも主体に外から働きかける意味を持っていることとも呼応する。たとえば、surpriseは「驚かせる」であって「驚く」ではない。「驚く」は受け身でbe surprisedと表現する、というようなことだ。
 話は変わるが、そう考えると、タッチセラピー(単行本第8回「触ると世界が感じとれる」)によって、緊張が緩和され、筋肉の痙攣が和らぎ、睡眠トラブルが軽減するというのも説明がつく。やさしくそっと触られることが、自分は守られているという安心感を生むようになっているからだろう。
 心の問題(気分)の改善には、身体の動きからのアプローチが有効だということを、身体で実感し、頭でも理解できた。そして私が人の心の痛みへの想像力を欠いていたのは、もしかしたら相手の震えやこわばりを身体的に感覚するということをせずに、知性だけで相手を理解しようとしていたからなのかもしれない、と気づいた。
 前回紹介した『リスクと生きる、死者と生きる』(亜紀書房)著者の石戸諭氏は、被災者たちの声の振動を身体的に感じ取り、無意識に彼らの手を握り、肩をたたき、そうする中で、個々の痛みへの想像力を働かせていたのだろう。ある状況の中で自然に人の手を握り、その身体感覚から共感感情が生まれる、声の調子から伝達内容以上のものを身体的に感じ取り共感する、私に欠如していたのはこの部分だったのかもしれない。

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