西きょうじ「そもそも」
2018/02/02

第二十五回 「見る」と「見える」の世界観

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 私は、ものであれ人であれ、対象を凝視する癖がある。そのせいで、通りすがりのこわい人に絡まれたことも何度かある。地べたに座り込んでいる姿が視界に入ったりすると、ついついじーっと見てしまう。何も「ガンを飛ばしている」つもりはないのだが、相手はそう思ってしまうようだ。電車の中でも私の前に座っている人の顔を無意識のうちに凝視してしまっていることがある。もちろん相手が気付けば視線をそらすのだが、そらした先のものをまた、じーっと見てしまっていることも多い。エレベーターの中では人を凝視してしまわないように、通過中の階の表示に視線を固定しがちだ。しかし、凝視したからと言って階の通過が速くなるわけでもない。
『「疲れない身体」をいっきに手に入れる本』(藤本靖/講談社+α文庫)で、PCの画面を見るときも、画面を凝視しているから、眼球を動かす目の奥の筋肉が緊張してかたまりやすくなり、目が疲れてしまうのだということを知った。そこでこの本にある「楽に目を使う方法」を試してみることにした。PCの画面を見たままで視野を広げて周りの空間も見るようにしたのだ。すると、前のめりの姿勢から解放されて、これまで凝視していた画面が広い視野の一部になる。本書にある、「外にある情報を『捉えようとする』のではなくて、『受けとる』ように見る」という感じが少しつかめてきた。その状態でぼんやりPCの画面を眺めていると、文字情報がダイレクトに頭に飛び込んでくるような感じになってきた。こちらから情報にアプローチしているというよりは情報が目を通過してアプローチしてくるような感覚だった。さらに、自分の体の筋肉全体が緊張状態からやや弛緩した状態になっているのに気付いた。視野を左右に広げると、自然に口角が広がる。そのことによって、前回のコラムで書いた、表情筋の動き(笑顔)による感情の解放が生じているようなのだ。緊張が解けた心身に情報が流れ込んでくる。新鮮な感覚だった。そこで、仕事を中断して、体の緊張を解き、視界を広げた状態で外を散歩してみることにした。
 そのとき、私はおそらく生まれて初めて、「見る」と「見える」の世界観の違いを実感した。私はこれまで、自分の側から意識的に対象を「見よう」としていたのだが、その時には自分に主体性があり、自分と対象の境界は歴然としたものだった。しかし、視界を広げて口角も広げて筋肉を弛緩させてぼんやり景色を眺めると、対象との境界が溶けていき、「見る」主体と「見られる」客体が融合するような感じなのだ。意志的に何かを見ようとしなくても、そとからぼんやりといろいろな形や色が入ってくる、これが、「見える」ということなのか。そういえば、山に登って頂上から景色を眺めると、自分が、見ている景色の一部となっているように感じられる、という経験をしたことがあったのを思い出した。
 哲学者の鷲田清一はゴリラ研究者の山極寿一との対談(『都市と野生の思考』/インターナショナル新書)で、視覚や聴覚を嗅覚や味覚と異なるものとして、視覚では「対象と自分が明確に切り離されている」「見ること、聞くことは、対象と距離をおいているから、対象から影響されない」と述べているが、見ることや聞くことも、嗅覚や味覚ほど直接的にではないにせよ、実は対象に影響されるのではないか、と思う。
 前回のコラムでは、身体の動きと心の相互作用について取り上げた。身体の動きと心(脳)は二元論的な独立した要素ではなく、影響を与えあいながら相互を形成し続けているということだった。私たちは心(脳)の側に主導権があると考えがちだが、意外にそういうものでもないのではないか、と述べた。今回のコラムは、身体の動きと心(脳)だけではなく、主体と客体(知覚の対象)も二元論的な対立要素ではないのではないか、というところから始めたい。
 まずは主体と環境の相互関係を考えてみよう。そもそも私たちは空気や食べ物を取り込んで生きているわけだから環境の影響を受けているのだが、人はついつい自分の主体性(意志)を重視しがちだ。健康意識の高い人は、自分が食べるものを主体的に選ぶことで、自分の健康な体を作ろうとするのだが、実際に自分の体を作る直接の主体は食べられる食物にある栄養素だ。栄養素を取り込むことで自分の体は「作られて」いくのだ。つまり、体は環境によって変化し作り変えられ続けているのだといえるだろう。
 現代、私たちは、主体性(意志)という強迫観念にかられているのではないか、と思う。常に自由な選択肢の中から意志的(能動的)に行動を選ぶことが求められ、その結果には責任を負うべきだと考えられている。この考え方は自己責任という言葉であらわされ、しばしば政治的に社会的弱者を抑圧する機能を果たしている。しかし、そもそも私たちは本当に自由意志によって能動的に行動しているのだろうか。
 脳科学的に考えると、意志は行動に先行するものではなく、行動が先行してから意志が生じている。たとえば、誰かを殴ろうと思ってから殴るという行為が開始されるのではなく、殴るという行為が開始されてから殴ろうという意志が生じているのだ。また、意志的に遺伝的要素や生まれ落ちる環境を選択することはできないが、そういった要素は行動に大きな割合で影響する。すると、遺伝・環境⇒行動⇒意志という順に進行しているのだということになる。(もちろん⇒は必然的進行を表すのではないが)
 それでも意志が先行していると私たちが考えたくなるのは、意志⇒行動と考えるほうが、ロジックとして説明しやすいし、社会構造の安定化に好都合だというだけのことなのかもしれない。先のように遺伝・環境⇒行動⇒意志という順にことが行われるのだと考えると、犯罪の責任を個人に帰することはとても困難になるだろうし、社会の秩序を保つのは困難になるかもしれない。もちろん、そういう面も考慮して裁判は行われるべきだとは思うが。
 当然のことながら、学校教育で求められる学力にも、遺伝的要素、環境的要素が大きくかかわっているのだから、学業成績がふるわないことも全面的に自己責任だとは言い切れない。これは私自身の職業上言いにくいことだが、認めざるを得ない真実なのだ。
 さらに、追加しておくが、以前このコラムで述べたように、社会的な成功も失敗も「たまたま」の要素が強いのだから、社会的成功や社会的失敗をすべて自己責任に帰するのは不当なことだ。社会的成功を自らの努力のたまものだと信じたい人にとっては認めたくない真実であろうが。〈本コラム第十九回「そもそも、ぼくたちがここにいるのは『たまたま』である」〉
 そもそも、責任responsibilityとはrespondの名詞形であり、反応すること、応答することだった。状況や相手が求めるものに応じることであり、ものを本来的に使おうとしたり、たまたまうまくいっていない人の境遇を知って、それに反応してなにかしら手助けしようとしたりすることが責任であったはずだ。だからたまたまうまくいかなかった人の境遇についての責任は、むしろ手助けできる立場の側の人にある、ということもできるだろう。
 話をもどそう。主体性の重視、さらには主体客体の二元化(身体と脳であれ、自分と他人であれ、観察する主体と観察される対象であれ)、あるいは独立した要素への還元(解剖学的な)といった思考様式が、デカルト以来の西洋近代合理主義思想の基本であり、また、科学的進歩の原動力であったということは言うまでもない。しかし、現代社会においては主体性への意識が過剰になったこと(と同時に過剰な還元主義によって部分がクローズアップされ、部分と部分のつながり、およびそれらが作り出す全体像が見えにくくなったこと)の弊害も生じているのではないだろうか。
 主体客体を鮮明に二元化し、主体性を過剰に意識すると、客体を主体とは切り離された行為の対象としてしか意識できなくなる。鷲田清一の言う「対象から影響されない」状態であり、対象側からのベクトルをないものとして、客体をいわば手段として扱うことになりがちだ。
 話は飛躍するが、商品の売買について考えてみよう。基本的に経済活動としての売買とは、需要と供給のバランスによって価格が決定され、ものとお金をやり取りすることだ。そのやりとりは双方向的なものではあるが、互いに相手に影響しあうことはない。たとえば、自動販売機でペットボトルを買う時に自動販売機と購買者が言葉のやり取りをして互いに影響しあうことなどないだろう。購買者からすると、自動販売機はペットボトルを手に入れるための手段以上のものではありえない。これは、無駄を省いた合理的な経済活動だ。ペットボトルを買うたびに自動販売機から何らかの影響を受けるというのではたまったものではない。それでも「お買い上げありがとうございました」という音声を発する自動販売機もある。
 しかし、次のケースはどうだろう。三〇年ほど前に私は東京都の高円寺に住んでいたのだが、実に人情味あふれる街だった。ビールや焼酎を買いに酒屋さんに行くと、店の中にいつもすわっているおばあさんは簡単には売ってくれない。「お母さんには連絡を取っているか」とか「昨日買ったばかりなのに今日も焼酎ボトルを買うのは飲みすぎだ」とか、なにかしら言ってくる。ここでおばあさんの機嫌を損ねたら、本当に売ってくれない可能性もあるので何らかの言葉を返さなければならない。ビールならば自動販売機で買えるのだが、焼酎ボトルだと、そうはいかない。そういうわけで会話を交わしてからようやく商品を手に入れることになるのだが、おばあさんの機嫌がいい時には、あるいはおばあさんを機嫌よくすることに成功した時には、「これも持っていきな」と言って、スルメやら柿ピーやらをおまけしてくれることもある。時にはおばあさんが漬けた梅酒をもらったこともあった。既製品の梅酒が店に商品として並んでいるのに。これは、非合理的なノイズに満ちあふれたやりとりだ。が、そこには単なる商品とお金の交換を越えたものがあった。
 もちろん、すべての買い物に対してこんな調子だと日常生活が煩わしすぎるだろう。むしろ、スーパーやコンビニのレジは自動精算の方向に向かっている。これは人手不足、人件費節約、効率向上という面からみて、進むべき方向だろう。しかし、経済的等価交換の合理性を高めると、一見無駄に見える会話は排除されることになる。さらには日常生活全般に合理性を求め、生活から特に意味のない会話(人と人とのコミュニケーション)が失われるということにまで発展すると、社会の健全さが損なわれるのではないか、と思う。
 そもそもコミュニケーションとは無駄な会話を基調とするものであったはずだ。コミュニケートとは「分かち合う」が語源であり、一方向的な情報伝達を指すものではない。現在しばしば「コミュニケーション能力の向上」というフレーズを耳にするが、それは情報伝達能力の効率性を高めることと同義ではない。同じ空間、時間を分かち合っているという共感がコミュニケーションの原点であり、技術ではなく共感能力を高めることが出発点なのだ。そういう点ではグローバルなコミュニケーション能力というのは、非常に難易度が高く、せいぜい一五〇人くらいの共同体の方が、コミュニケーション能力を向上させ、発揮しやすいだろう。
「分かち合う」ことは、多かれ少なかれ贈与の要素を伴う行為だ。そこには何らかの感情(贈与を受けた側にとっては返礼への義務感、感謝の念〈英語のoweやobligeは感謝の意味にも義務の意味にも使われている〉、贈与した側にとっては他者からの承認を得られた満足感、相手への思いやり、あるいは征服感など)がかかわってくる。贈与は人と人との間に感情的な関係性をつくる行為であり、経済的等価交換と同じではない。マルセル・モースの『贈与論』(岩波文庫)にはこう書かれている。
「贈り物というのは、与えなくてはならないものであり、受け取らなくてはならないものであり、しかもそうでありながら、もらうと危険なものなのである。それというのも、与えられる物それ自体が双方的なつながりをつくりだすからであり、このつながりは取り消すことができないからである」
 自動販売機でものを買うのは、経済的等価交換だが、おばあさんとのコミュニケーション(やりとり)が義務づけられる買い物の場合、結果的には等価交換しているのだが、贈与的な要素が含まれると言えるだろう。つまみをもらってしまった以上、もうおばあさんの店以外の酒屋で焼酎を買うことには抵抗を感じるし、またつまみをもらえるかもしれないという期待感がおばあさんの酒屋に足を向けさせることになる。さらには、天気の話を共有したり、おばあさんの健康具合を確認したりする義務感まで生じてくる。商品の売買という行為が互いの感情に影響を及ぼしあうことになるのだ。お金を払って商品を受け取るときに、自分の意志とは別のところで、商品以外のものも受け取っているわけだ。これは「見る」よりも「見える」に近い。主体の意志、行為の目的とは無関係にその行為から、また行為の相手から影響を受けているからだ。
 行為を行う時に、本来意図しているわけではない影響を受け取ってしまうというのは実に面倒くさいことではあるし、あらゆる買い物に人間関係のわずらわしさが伴うのであれば、現代の私たちの社会においては生活に支障がおきることになるだろう。(しかし、世界には、ものの売り買いにはそういうコミュニケーションが不可避な社会もあるということは、頭にとどめておきたい)
 だからといって、このわずらわしさをなくすために、感情の受動を遮断し合理性、効率性を優先していくとどうなるだろう。次第に、コミュニケーションが失われ、人と人とのつながりが希薄になり、個人が孤立しやすい社会になっていくだろう。いや、すでにそうなりつつあるからこのコラムを書いているのだ。このコラムでは何度もノイズの重要性について述べてきたが、ここでも、合理性、効率性のために切り捨てられがちな要素をノイズとして切り捨ててしまわないことを主張しているわけだ。もちろん、ことあるごとに人とつながろうとする必要はない。つながりを過剰に求められるとむしろ孤立したくなるわけで(過剰な人間関係を強いるムラ社会に住みたいとは思えないし、常に反応を要求するSNS上の閉鎖的人間関係も疲れるばかりだ)、結局はどのあたりにバランスを設定するかが大切だ。しかし、少なくとも身近な生活圏のコミュニティーにおいては、コミュニケーションに対する受容性を保っておくほうが、つまり、つながりの可能性を開いておくほうが、息苦しくなく暮らせるだろう。また、状況から生じる人間関係を感受し、さらには共感を日常的なレベルで積み重ねていくことは、社会の分断と個人の孤立に拮抗することにもつながり得るだろう。
 話を戻そう。「見る」(あるいは「聞く」)は能動的な行為だが、「見える」(あるいは「聞こえる」)は受動性を伴う行為だという話だった。現代の日本社会において(アメリカや西欧でも同様かもしれないが)は、人々は対象を「見る」「聞く」スタンスになりがちだ。それは意志的で能動的なベクトルだ。その結果、「目(耳)に入ってくるものを受け入れる」という受動性をかたくなに拒みがちになる。その姿勢が、自らの視野を狭め、変化を妨げ、さらには社会的分断を強めているように思う。ネットメディアでは、自分と異なるスタンスの情報が入ってこないようにするフィルターが、自分が意識していないところで形成されており、そのため入ってくる情報の範囲が非常に限定されてしまっている。(フィルターバブルという)それも社会的分断を強化する要因になっている。
 能動態と受動態(「する」と「される」)は行為の主体と客体を入れ替えて表現するものだ。(しかし英語の受動態は通常by以下〈行為の主体〉を明記しないので、ほとんどの受動態の文は能動態に変換することができないという点で、実際には非対称的ではある)能動態にせよ、受動態にせよ、主体と客体は独立的な要素としてとらえられるのだが、『中動態の世界』(國分功一郎/医学書院)によると、古代ギリシア語やサンスクリット語には、中動態という態があり、これが能動態に対立するものだったという。中動態という名前からすると、能動態と受動態の間に位置するように思われがちだが、そうではないのだ、とこの本では論じられている。能動態と中動態が対立するものであり、受動態はもともと中動態の分派だったのだ、と。
 ではなぜ、能動態と中動態の対立が能動態と受動態の対立に置き換えられていったのか、というように論は進行していく。
 本書はとても緻密に書かれており、難解な部分もあるので、丁寧に読み通すには骨が折れるが、その価値は十分にある。といっても私自身、本書の内容、さらには著者が中動態を追い続ける姿勢に感銘を受けたのだが実は十分に理解したとは言い難い。興味のある方はぜひ読んでみるとよいと思う。ここからは『中動態の世界』を参照しつつ論を進めることにする。
 まず中動態とはどういうものか、という定義も非常に困難なのだが、本書では、動詞(状態であれ動作であれ)の主語がその状態の中にいる、あるいはその動作によって生じる状態が主語に利害関係などの作用をもたらすものだというように説明されている。中動態を単独で説明してもわかりにくいのだが、対立の問題としてとらえるとわかりやすくなる。能動態受動態の対立では行為の主体と客体が区分されそこには意志の問題が関わることになる。「AがBを殴る」「BはAに殴られる」という例を考えればわかりやすいだろう。前者はAの意志で行動が開始されていると解釈される。しかし、能動態中動態の対立には意志の問題はかかわらず、出来事が主語の外部で完遂するのか、出来事が主語の内部に入り込んでくるのか、が焦点になる。本書では、「彼は馬をつなぎから外す」という内容の文を能動態で表現すると、彼がその馬に乗るのではないだろうと考えられ、中動態で表現すると「馬がつなぎから外れた」状態の中に主語が関与することになるので、彼がその馬に乗るのだろうと考えられるという例が挙げられている。能動態と中動態は常にはっきりと区分されるわけではないが、「主語の被作用性が低い場合には能動態が、それが高い場合には中動態が用いられる」というように使い分けられていた。
 さらに本書では、中動態の存在を考えることが現代社会について考える際になぜとても重要なのか、能動態中動態の対立から、中動態が受動態へと派生し、能動態受動態への対立に移行したことは何を意味するのか、を述べている。
 能動態と受動態の対立では、主語の意志が問われることになるが、なぜ主語の意志が重要なのかというと、先に書いたように、行為にたいして完全な責任を問うには、その行為が主語の意志によって開始されたのだという前提が必要になるからだ。責任を問う言語は「尋問の言語」だということもできる。言語の変化はその言語がおかれた社会環境と独立して生じるものではないのだから、尋問の言語を不可欠だとする社会への移行と並行してする変化だったと考えられる。この移行について本書にはデリダの言葉が引用されている。
「おそらく哲学は、このような中動態、すなわちある種の非―他動詞性をまず能/動態と受動態へと振り分け、それを抑圧することで自らを構成したのである」
 能動態受動態型の現代社会においては、個人の主体性が重視されており、各人の自由意志に基づいて行動し、その結果については行為者が責任を取る、ということが当然視されている。しかし、これも先に書いたように、現実的には、過去や環境と切り離された状態から自由な意志が生じ、行為を開始するということはない。だから、行為に対する完全な自己責任ということは論理上ありえないということになる。完全な責任

を伴うべき意志的な行為があるとすれば、過去から切り離された意志から開始された行為ということになるが、それは思考なき行為だということになる。「思考とはそれまでに自分が受け取ってきた情報にアクセスすること」だからだ。
 ではそれ以前の能動態と中動態を対立させる言語はどういう社会とリンクしていたのか。本書ではハンナ・アレントの言葉が引用されている。
「アリストテレスは意志の実在を認識する必要がなかった。つまりギリシア人は、われわれが『行動の原動力』だと考えているものについての『言葉さえもっていない』のだ」
 その上で國分はこうも言う。
「中動態の存在と意志概念の不在は、古代ギリシアに見出される同時的現象である」
 では行為はどのように生じるのかというと、選択することによってである。これは私たちの日常生活の現実と一致する。
「日常において、選択は不断に行われている。人は意識していなくとも常に行為しており、あらゆる行為は選択である。そして選択はそれが過去からの帰結であるならば、意志の実現とは見なせない。(中略)意志と選択は明確に区別されねばならない」
 選択するという行為は行為者が自らの意志によって開始する行為ではない。選択肢は状況の中で与えられるものだからだ。選択は様々な要素の影響を受けることになる。状況によってはやむを得ず選ぶ場合もあるだろう。これは日常的にしばしば起こることだが、選択を強制的な要因によるものか自発的な選択か、と区分しようとすると、あるいは自由意志的な選択だったはずだとして全責任を選択者に負わせようとすると、決定不能な状態に陥らざるを得なくなる。しかしそれを中動態的な観点から見ると、自発的ではないが自分に影響を与える選択をすることが受け入れられる。自由意志による行為であるか否かで分類しようとする見方を、中動態的な行為であるか否かで判断するというものの見方に変換すると、現代社会の「行為者(の自由意志)と責任」という呪縛から解放されることになるだろう。
 さらに著者は、この「行為者の自由意志と責任」を求める強い信念が中動態の存在を抑圧していったのだと述べている。そのうえで、この抑圧が弱まる場に中動態が復活する可能性を見出している。実際に中動態が復活した例として、いわゆる能動受動態(This book sells well「この本はよく売れている」)をあげている。能動態/受動態以前の動詞はそもそも行為者を指し示すのではなく、動作や出来事だけを指示していたのだが、この表現は出来事そのものを表す言語だからだ。
 このコラムの出発点であった「見える」「聞こえる」はまさしく中動態的な表現である。主語が意志的に行為するのではなく、主語の中に対象が入ってきて主語に影響をもたらしているのだから。そう考えると、「贈与」も中動態的な要素をもつ行為になりうる。たとえば、困窮しているものが視界に入ってくる。すると、(また自分が困窮していないのはたまたまの結果なのだと認識できるのであれば)そのものに対して何らかの贈与をしなくては、という気持ちに襲われる。人間にはフェア(公正さ)を求める感情が本能的に備わっているからだ。(ほかの動物にそうした本能が観察された例もある)そうして何らかの贈与をすることになるのだが、その行為の結果は主語が意識していなくても主語の中に入ってくる。結果的に多少なりとも自分の気持ちが救われることになるからだ。
 人は自由意志によって行動すべきであり、したがってその行為の責任は行為者にある、というのはある特定の社会のあり方を維持するための抑圧的なフィクションであり、現実にはその枠組におさまらないケースも多い。自由意志という考え方からいったん離れてみて、主体性という意識からも解放されて、中動態的な見方を受け入れることが必要な場合も多々あるだろう。そうすれば、社会はより抑圧的でなくなるしより他者への寛容度も高まるはずだ。完全な自由を夢想することは、結果的に抑圧的な社会を生みやすい。完全な自由などありえないという前提から出発して、それは同時に完全な抑圧(強制)もありえないということを意味するのだと自覚しつつ、受け取った選択肢の中からより、自分にとって好ましいと思われる行動を過去に基づく思考によって選ぶこと、あるいは本能(現代社会では抑圧されがちだが)に従ってよりフェアな社会に形成していくことになる行動を選ぶことは可能だろう。そのためには、自分も他者も自分の意志ではどうにもならない、外部から生じることを受け入れざるを得ない場合、つまり自己責任など取りようもない場合、もあるものなのだ、という認識が必要だ。
 今回は非常に長いコラムとなったが、著者の希望を述べた最終部分、「自由へ近づくために」からの引用でしめくくることにする。
「われわれはおそらく、自分たち自身を思考する際の様式を根本的に改める必要があるだろう。思考様式を改めるというのは容易ではない。しかし不可能でもない。たしかにわれわれは中動態の世界を生きているのだから、少しずつその世界を知ることはできる。そうして、少しずつだが自由に近づいていくことができる。これが中動態の世界を知ることで得られるわずかな希望である」

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