西きょうじ「そもそも」
2018/03/02

第二十六回 幸福はつかもうとしてつかめるものではない

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 幸福(しあわせ)とはどういう状態のことをいうのか、などと考え始めている時点で、幸福とは言えない状態にあるのかもしれない。そもそも、幸福感の中にいるならば、「幸福とは?」などという問いは出てこないだろう。
 こんにち、「幸福(しあわせ)になるための方法(レシピ)」的な本やネット記事は数え切れないほど世に出ては消え、また新たに世に出ては消えていきながら常にあふれかえっている。これらの情報についても幸福感の中にいる人がアクセスすることはないだろうから、如何に多くの人が幸福とは言えない状態にあるか、幸福を目指しているか、がわかろうというものだ。
 もちろん、どういう状態を幸福と感じるかは人それぞれなので、幸福の一般的状態というのは定義しにくい。不幸でなければ、幸福というわけでもないだろう。経済的豊かさは幸福感と結びつけて考えられやすいが、ある一定の収入を超えると収入の大きさと幸福感との相関関係は低くなるというデータもある。(幸福感については自己申告となるので、このようなデータを扱うのはとても難しい部分はあるが……)つまり、貧困はしばしば不幸に陥る原因になるが、豊かさが必ずしも幸福感に結び付くわけではないし(逆にお金が人を不幸にすることも多々ある)、貧困状態だと絶対に幸福感を得られないというわけでもない。社会的貧困と幸福感の関係についてはあとで述べることにする。
 結婚式などで、「お父さん、わたしたちしあわせになります」とか「僕は、この人を必ずしあわせにします」とか宣言する人たちには、「今はしあわせではないのか」とか、あるいは「しあわせは人の意志によって実現できるものではないのだよ」とか、嫌味なことを言いたくなる。(が、もちろん、決してそういうことは言わない)
 身もふたもない結論を言ってしまうと、「しあわせになるための方法」を実践しても、それを実行することによってしあわせをつかむことはできない。幸福感とは能動的につかみ取ることができるものではなく、受動的に受け取るものだからだ。前回のコラムに関係づけると、幸福感を得るというのは能動態的なことではなく、中動態的な動作なので、意志の力で能動的にコントロールできるものではないのだ。
 ナチスによる強制収容所を体験した精神医学者ヴィクトール・エミール・フランクルは『それでも人生にイエスと言う』(春秋社)の中で、こう述べている。
「しあわせは、けっして目標ではないし、目標であってもならないし、さらに目標であることもできません。それは結果にすぎないのです。(中略)いずれにしましても、しあわせというものは思いがけず手に入るものにすぎず、けっして追い求められないものであるわけですから、しあわせを得ようとすれば、いつも失敗することになるのです」
 私なりにまとめると、人は常にその人がおかれた環境から答え(態度決定)を求められている。しあわせとは、問いに対する態度決定によって結果的にもたらされることがある状態であって、自分の主体的意志によってコントロールできるものではない。したがって、手段として何らかの行為を行えば、しあわせになれる、ということにはならない。未来のしあわせを目標にするのではなく、「いま・ここ」にある個別的で具体的な問いにどう答えるかが重要なのだ、と。これが、強制収容所の過酷な現実の中で、事あるごとに態度決定を余儀なくされたフランクルが得た結論である。
 彼は「私は人生になにを期待できるか」という問いを、「人生は私になにを期待しているか」という問いへと転換することを提起している。たしかにそう考えると、漠然とした未来のしあわせを目標として、そのために今の行動を決定するということは、本末転倒だということになるだろう。
 さらに彼は「生きる意味について」はこのように述べている。(ちなみに彼は、心理学者アドラーの弟子で、アドラー心理学は『嫌われる勇気』〈ダイヤモンド社〉によって、日本でもよく知られるようになった)
「私たちが『生きる意味があるか』と問うのは、はじめから誤っているのです。つまり、私たちは、生きる意味を問うてはならないのです。人生こそが問いを出し私たちに問いを提起しているからです。私たちは問われている存在なのです。私たちは、人生がたえずそのときそのときに出す問い、『人生の問い』に答えなければならない、答を出さなければならない存在なのです。生きること自体、問われていることにほかなりません。私たちが生きていくことは答えることにほかなりません。そしてそれは、生きていることに責任を担うことです」
 前回のコラムで書いたように、責任(responsibility)とはrespondの名詞形であり、反応すること、応答することだった。人生の問いに対して、満足のいく応答ができた、つまり、責任を果たせた、と感じられるときに幸福感を得るということなのだろう。
 では、どういう時に自分なりに責任を果たせたと感じられるのだろうか。それは必ずしも状況に対して何らかの行動を起こしたと思われる時、積極的に最善の選択をしたと思われる時に限らない。美しい景色や芸術に感動するという反応も環境に対する態度決定(選択)だといえる。(感動するbe movedは受動態である。感動は対象を認め、受け入れることで引き起こされる心の反応だ)感動とともに幸福感に満たされる、という体験は誰にもあるだろう。もちろん、「能動的に感動することによってしあわせをつかむぞ」というように、主体的に、意志的に幸福感をコントロールしようとする人はいないだろう。自分の目の前に現れる問いへの反応の仕方が結果的に幸福感を生む。幸福感を得るというのは中動態的な動作なのだ。
 しかし、意志的に幸福感をつかむことができないとしても、幸福感をつかみやすい環境をつくること、つまりしあわせになるための準備をすることは可能である。また、問いに対して自分が満足できる反応を選択できるようになることも必要だ。
 実は、いわゆる幸福本に書かれているのは、しあわせになるための準備の仕方、不幸な状態に陥ることを回避する方法、あるいは不幸な状態から脱却する方法である。それによって直接的にしあわせになることにはならないが、幸福感を阻害する要因を除去し、幸福感が得られやすくなる姿勢が示されている、と言えるだろう。
 世界中で今も読まれている名著、アランの『幸福論』(岩波文庫)を取り上げてみよう。アランは高校の哲学教師として政治活動にも積極的にかかわったフランスの哲学者だ。『幸福論』は九三のプロポ(断章)から成り立っておりコラムのような形式で書かれている。
 内容の一部を紹介しよう。「不安を増大させないこと」、「感情に身を任せないこと」、「悲しみを心の問題としてではなく、身体の問題として対処すること」、「柔軟さを大切にすること」、「くよくよしないこと」、「過去や未来にとらわれないで現在に集中すること」、「ネガティブにならないこと」(ネガティブな感情は自分でつくってしまっているのだ、と書かれている)、「自分の不幸について人に話さないこと」、「礼儀正しくふるまうこと」、「悩んでいるよりは行動すること」どれもことごとく納得できることだが、これらは、「そうしなければ、不幸に陥りやすいよ」あるいは「こうすれば不幸から脱却できるよ」というメッセージだ。
 さらに、「笑顔でいること、笑顔を作ること」(おかしなことがなくても無理に笑顔を作ると、脳が間違ってドーパミンなどの神経伝達物質を出し、NK〈ナチュラルキラー〉細胞を活性化させるといわれている)、「愛情・友情を大切にすること」、「希望を持つこと」、「能動的になること」、「自分を知ること」これらは幸福感を得やすくする姿勢の準備だと言えるだろう。もちろん、幸福を直接の目的として「しあわせになるために友達を作ろう」といわれてもピンとこないが、友情や愛情を感じることで幸福感が得やすくなる、というならばまさしくその通りだ。後述するように幸福感は環境との関係性から得られるものだからだ。「思わず罵りたくなるようなつまらない出来事に出くわしたら、上機嫌にふるまうこと」これは、人生が与える問いに対して、どう答えるべきか、についての言及だ。
 西欧の哲学者として自然なことだが、アランは幸福を得ることに対して中動態的ではなく、能動態的な態度を取っている。幸福は与えられるものではなく、何かを成し遂げた満足感や達成感を味わう時に実感するものだ、どんなことでもとにかく始めてみることだ、と。これは現代の日本でも起業家などがよく口にすることだが、何かを始めればしあわせになれる、というわけではない。幸福というテーマに限定すれば、くよくよ考えて行動しないでいると、不幸に陥りやすく、幸福感から遠ざかってしまう、ということになるだろう。
 また、豊かでさまざまなものをじっくり見ること、じっくり見ることができるようになると、なんということのない景色にさえ、尽きせぬ喜びを感じるようになる、とアランは書いている。同じことのようだが、私は、対象をじっくり見ると、対象から語りかけてき
て、それを受け取る、つまり「見える」ようになると幸福感が得られるのだと、中動態的にとらえている。(前回コラム「『見る』と『見える』の世界観」)
 ここで列挙した姿勢は不幸感を遠ざけ、幸福感を得やすくする準備となるものだ。言うまでもなく、幸福感を得るためには、目の前の問い(外部環境〈人も含む〉とのつながり)を受け入れる必要がある。単行本『そもそも』では「好奇心は幸福の鍵?」と書いたが、好奇心とは未知なるものに出会った時に、それを関心の外部に追いやることなく、対象と積極的につながろうとする力だ。それが結果的に幸福感につながっていくのだ。もちろん、幸福になることを目指して、意志的に好奇心を抱くことはありえない、のは言うまでもない。
 さらに、幸福感を得やすくするための体内環境について考えてみよう。人の幸福感には、セロトニンという物質が関係していると言われている。セロトニンは、血管の緊張を調整する物質として発見、命名された物質で、腸に約九〇パーセント、血液中に約五パーセント、脳に約五パーセントあると考えられている。脳内(大脳周縁系)にセロトニンが分泌されると、不安や恐怖感を抑えられ、痛みも緩和され、精神状態も落ち着きやすくなる。他方、脳内のセロトニンが不足すると睡眠に悪影響を与え、ストレス反応が大きくなるので、精神状態も不安定になりやすくなる。この状態が長く続くと、パニック障害、自律神経失調症やうつ病を引き起こす可能性が生じる。うつ病はある程度その人の個性だともいえるだろうが、幸福感を妨げ不幸感を助長する要因になる。セロトニンが脳内に十分に分泌されている状態は、不幸感からの脱却、さらには幸福感を得やすくするのに必要な体内環境なのだ。
 セロトニンの分泌を促すには、太陽の光を浴びること(朝の太陽の光を部屋の中に取り込むなどでも効果がある)、ウォーキングなどの運動、腹式呼吸、信頼している人との身体的接触(タッチセラピーに見られるように、心地よく触れ合うことによってオキシトシン〈共感ホルモン〉が分泌され、それがセロトニンの分泌を促す)といったことがあげられるが、もう一つ忘れてはいけないことがある。
 腸内細菌の存在である。ここからは藤田紘一郎(単行本『そもそも』第6回「うんち、その後 ~生態系ネットワーク(2)~」でも取り上げた寄生虫学、感染免疫学の権威)『こころの免疫学』(新潮選書)を参考にしながら進めることにする。
 うつ病の原因は脳内セロトニンの不足である、ということで一九八八年に脳内にセロトニンを増やす薬(SSRI)が登場し、うつ病は薬で完全に治る、と言われるようになった。しかし、その後、重大な副作用があることが明らかになった。SSRIを飲み続けていると、おそらくは、それによって発生したセロトニン過剰を克服するために、セロトニン受容体が減少してしまうというのだ。セロトニンが増えてもそれに反応する受容体がなければ脳は正常に機能しなくなる。その結果、イライラしたり暴力を振るったり自殺したりするということが起こりやすくなるというのだ。
 体内で作られていく過程を経ずに、人工的にセロトニンのみを脳内に摂取してもセロトニンはきちんと機能しない場合もあるようだ。体内では、天然のアミノ酸であるトリプトファンを摂取することによって、脳に腸からセロトニン前駆物質が送られてきて、脳内セロトニンが生成される。セロトニンが不足するのは、トリプトファンそのものの摂取量の不足、ビタミンやミネラル不足によってトリプトファンを作る酵素が機能しない、ストレスや遺伝的体質、アルコールなどの刺激物によってトリプトファンからセロトニンへの変換が妨げられるといったことだけでなく、最大の要因として、セロトニン前駆物質を作る腸内細菌が減少しているということがあげられる。(セロトニン前駆体の九五パーセントは腸で作られている)
 つまり、腸内細菌を増やし、腸の環境を整える(そうすることで免疫力も向上する)ことが、幸福感が得られやすくなるための準備なのだ。ちなみに、精神神経免疫学という分野の研究では、脳と免疫系が互いに情報をやり取りしており、脳の機能も免疫系の影響を受けていることがわかっている。(著者は『腸内革命―腸は、第二の脳である』という本も出版している)
 腸内細菌の減少には、食生活だけではなく、環境が清潔すぎて菌と接する機会が少ないことも関係しているようだ。現代社会は菌を排除しすぎてしまい、その結果免疫力が低下し、アレルギー疾患だけではなく、うつ病などの心の病も生んでいるのだと著者は言っている。菌とのつながりを回復し、本来の生態系ネットワークが機能するようにしていく必要があるのだろう。
 さらに、生態系ネットワークだけではなく、社会的ネットワークも重要だ。『「社会的うつ病」の治し方』(斎藤環/新潮選書)には、【人/ひと】【薬/ぐすり】という言葉がある。うつ状態への対処として、家族や友人ではない人と接するようにさせるという対人関係療法だ。もちろん、ひきこもった状態にある人に対人刺激を与えるには十分な観察と注意が必要で、タイミングを誤ればむしろ症状を悪化させることになる。しかし、うまくいけば、たとえば、入院してたまたま病室が同じになった人と接することが治療効果をもつこともあるという。同書には、家族や学校、職場の人間関係から離れて、入院して周囲の人と接するだけでうつ病から回復した例もあげられている。
 なぜ、関係性を築いてしまっていない人が相手の方がいいのか、というと、すでに関係性を持っている場合、相手を一定のキャラに閉じ込めるコミュニケーションが生じてしまいやすいからだ。相手が求めるキャラを演じることは、その中に閉じ込められ行動の自由を失うことになる。それがうまく果たせない場合、自己否定につながり、うつ状態を悪化させることになりかねない。一方、匿名性が一時的な対人関係であれば、もともと果たすべき役割は固定されておらず、態度選択の自由度が高くなり、また世間体を気にするストレスも少ない。新たなつながりを作りやすいのだ。
 また、オープンダイアローグという家族を中心とした会話による治療法もある。『オープンダイアローグとは何か』(斎藤環著+訳/医学書院)で、著者は「ここには確実に、精神医療の新しい可能性がある」とまで断じている。オープンダイアローグとは、一九八〇年代からフィンランドの一地方で行われている主に統合失調症に対する治療法だ。患者やその家族からの電話(誰でも無料で受けられるサービスだというのもすごいことだ)を受けると、二四時間以内に患者の自宅に、訓練を受けた治療チームが到着する。患者本人と家族、親戚、医師、看護師、現在の担当医などが参加して、開かれた対話が行われる。参加メンバーに上下関係はない。指示や命令をするのではなく、あらゆる発言が受け入れられ応答されることで会話を進行させる。また、あらゆる対処手段については患者を含めた全員の話し合いで決める。このせいぜい一時間半ほどの対話を通常一〇日から一二日続けて行うことで、著しい改善が見られることが多い、という。幻聴や幻覚といった特異な体験が、言葉によって周囲と共有されるということで、回復に向かうというのだ。言葉の共有によって、つながりが新たな形で再生され、孤立が解消されるということがおおきなきっかけになるのだろう。
 人間はそもそも社会的動物であるから、長期の孤独感は、精神的に人を不安定にさせることになるばかりか、身体に対しても悪影響を与える。脳血管や循環器、呼吸器の疾患や癌を生むこともある、という。これとは逆に、孤独が人を強くするという考え方もある。この考え方は、SNSなどで接続過剰となっている状態の中で、一人でいる時間の重要性を指摘しているのだと思う。もちろん、孤独でいるときに思考は深くなり、人は鍛えられるという点で、孤独の体験は重要だ。しかし、長期にわたる終わりも見えない孤独に、普通の人が耐えるのは困難である。コミュニケーション「分け合うこと」が、健全な心身の維持には必要なのだ。まずはどういうことからであれ、他人と共感しあうことからコミュニケーションは始まる。人と共感し、コミュニケーションをとることができる、というようなつながりを結びなおすことも幸福感を得やすくする準備なのだ。
 さらに話を展開する。単行本『そもそも』(第四回「伝染る」のかあ! ~社会的ネットワーク~)では、「利他的行為の伝染力は確認されており、人が利他的に行動するかどうかはネットワークに影響されます」と書いたが、利他的行動をすることによって、自分自身の幸福度があがるというデータがある。
 ここからは『競争社会の歩き方―自分の「強み」を見つけるには』(大竹文雄/中公新書)を参考にすることにする。
 本書には次のような実験結果が紹介されている。二グループに分けた被験者にお金を渡して、一方にはそのお金を自分のために使って何に使ったか記録させ、他方には他人へのプレゼントとか慈善団体への寄付に使って記録させた。すると、前者の幸福度は変わらなかったが、後者の幸福度は上昇していた。
 フランクルの言いかたにならうと、与えられたお金をどう使うか、という問いに対して、人のために使うという選択(態度決定)をさせることで幸福感を上昇させたわけだ。「人生は私になにを期待しているか」に対して、「他者をよりよくする」という答えを選ぶと、幸福感が得られやすいと言えるだろう。前回のコラムで、困窮している人に出会った困窮していない人が相手に何らかの贈与をすると、自分の気持ちが救われることになる、と書いたが、これも同様のことだ。そして、このような利他的行為は伝染するということだから、幸福感も伝染するのだということになる。
 さらに本書にはこう書かれている。
「最近の経済学研究で、このような互恵的な考え方や他人に対する信頼の程度が、経済成長や所得水準に影響を与えることが示されてきている。(中略)
 実際、アルガンとカユックという二人のフランスの経済学者の研究によれば、『一般的に言って人々は信頼できる』と思っている人の割合が高い国の方が、経済成長率が高かった。
(中略)彼らの研究は、経済成長したから人々は他人を信頼するようになったのではなくて、もともと他人を信用するような社会だったから経済成長したということを示しているのである」
 経済的豊かさと幸福度は必ずしも呼応しないと、冒頭に書いた。しかし、貧困が不幸感をひきおこしやすいことは事実だ。そして不幸感が伝染しやすいものだということは、日常生活的実感だろう。社会的貧困は不幸の悪循環的連鎖を生みやすい。たとえば、親が貧困な環境にいると、子どもは他人を信頼しなくなりがちだ。互酬性というつながりを実感する機会が少なくなりがちだからだ。(サンタクロースの存在を信じているかどうかについてアメリカで調査した結果、豊かな家庭の子どもに比べて、貧困家庭の子どもは信じていない割合が圧倒的に多かった、という)
 他人を信頼し、利他的行為を選択することで、自分自身は幸福感を得やすくなり、おそらく相手も幸福感を得ることになる。さらに社会も豊かになる。豊かな社会は貧困な社会よりは幸福感を得やすい環境だし、幸福感は伝染する。
 もちろん、そんなに簡単に社会全体が変わったりはしない。毎回書き続けてきたことだが、まずは自分の周囲とのつながりを結びなおしてみることからしか始まらない。自分の生活環境、食生活から自分の腸内環境を改善し(生態系ネットワーク)、小さなコミュニティの中で、周囲の人とのコミュニケーション(分かち合い)を通じて、人が孤立しない環境を形成していく(社会的ネットワーク)。常に選択を迫られる人生の中で、対象を受け入れ、つながりをよりよくするような選択をし続けていく。そうすると、結果的に幸福感が得られる頻度もあがっていくことだろう。
 最後に宮沢賢治の理想主義的すぎる、しかし心から絞り出したかのような有名な言葉で締めくくることにする。
「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない」(「農民芸術概論綱要」)

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