ザ・ブックレビュー 宝塚の本箱
2021/12/29

男社会の中で苦悩し闘った男装の麗人オスカルについて、元タカラジェンヌが真剣に考えてみた

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イラスト:はるな檸檬

特別企画 早花まこ「ザ・ブックレビュー 宝塚の本箱」――【ベルサイユのばら】

元宝塚雪組の早花まこさんによる、特別ブックレビューをお届けします。今回は、早花さん自身4回出演されたことがある『ベルばら』の魅力を、舞台と漫画の双方から紹介。はるな檸檬さんの特別イラストにも注目です!(※記事内容は、2020年12月26日掲載時のものです。)

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元宝塚歌劇団雪組の早花まこさん

薔薇の香り立つその本

「ベルサイユのばら」。少女漫画や宝塚歌劇に興味がないという方でも、一度はこのタイトルを耳にしたことはあるだろう。
 累計発行部数は2000万部以上という池田理代子作の大ヒット漫画であり、1974年の初演時は当時客入りの鈍かった宝塚歌劇の人気を復活させ、その後の存続を支えた代表作のひとつとなった「ベルサイユのばら」。

 宝塚歌劇団に18年間在籍した間、私は合計4回「ベルばら」に出演することができた。小学生の頃から原作も舞台も大好きだった私にとって、この輝かしい作品に携われたことは光栄の極みであった。

「ベルサイユのばら」のストーリーや特性については、私が説明するまでもなく、多くの方がすでにご存知であろう。
 18世紀後半。激動のヨーロッパの、革命前後のフランスが物語の舞台である。
 運命に翻弄されながらも熱く生き抜くオスカル、アンドレ、マリー・アントワネット、フェルゼン。彼らの愛と信念、その絢爛たる生き様がドラマティックに展開される。
 主役たちはもちろん、階級を問わず、貴族や平民の脇役一人一人まで、血の通った魅力溢れるキャラクターが登場する。当時のヨーロッパ情勢が緻密に書き込まれたストーリーは、夢夢しい少女漫画の枠を超え、世代を超えて多くの人に愛された。

はるか遠いよオスカルは

 宝塚での舞台化だけではなく、テレビアニメや劇場版アニメも大ヒットし社会現象にまでなった「ベルばら」。今さら私が何かを語るなどおこがましいにもほどがあると承知の上で、どうしても今、取り上げたい人物。それはこの物語の主人公の一人である、オスカル・フランソワ・ド・ジャルジェそのひとだ。言わずと知れた男装の麗人であり、貴族出身ながら正義感と人間愛を併せ持つ、勇ましき軍神マルスの子だ。

 原作の漫画は、沢山のキャラクターが活躍する長大なストーリー。宝塚歌劇では、その一部を抜粋したり、特定の人物にスポットライトを当てたりした脚本となっている。観客はその都度違った登場人物の視点で、「ベルサイユのばら」を観る。原作の名台詞や絵柄通りのシーンがそのまま現れる舞台に心躍らせるのも、観劇の楽しみのひとつだ。
 様々なバージョンに変化しても、オスカルは必ず登場するキャラクター。このことからも、彼女が「ベルばら」に欠かせない人物であることが分かる。

 私が初めて出演した「ベルばら」は、入団5年目の2006年、雪組「ベルサイユのばら オスカル編」。宝塚ファン時代から一番好きだったオスカルの、「少女時代」という役を、なんと私が演じることとなった。
 トップスターの子供時代であるこの役は、大変なプレッシャーだった。音楽付きで堂々と登場し、華やかさでお客様を魅了し、見事なフェンシング技まで披露しなくてはならないのだ。不器用かつ不器量なこの私に、つとまるはずがない。お稽古の始めから、私は毎日叱られ、しごかれ続けることとなった。
 主演のオスカルは、朝海ひかるさん。扮装をしていないお稽古場でも、輝くばかりのオーラと気品を醸し出す、美しいオスカル様であった。私などが、この方の少女時代であるはずがない。絶対に違う。しかし、そんな言い訳はお客様に通用しない――。
 どうすればオスカルに近づけるのか、考え続けた。
 そして拙い頭が行き着いたのは、とにかく朝海さんを見つめる、という勉強法だった。

 お稽古中も休憩中も、劇団にいる間中ひたすら朝海さんを見続けた。私にとって雲の上の、そのまた上の存在であった朝海さんは、誰よりもストイックで芸事の追求に一切の妥協のない方だった。当然、お話をしたことなどない。ただならぬ緊張にブルブルと震えながら、朝海さんに教えを乞うため話しかけた。

 開演前から終演後まで休む暇もない、組の誰よりも多忙なトップスターという立場にいながら、朝海さんは私ができないこと(ほとんどのことができなかったのだが)について全てを教えてくださった。鬘の前髪を立ち上げ、動いても崩れないセットの仕方。青い瞳に見せるための、ブルーのアイシャドウを乗せるコツ。話をしたこともない上、不出来な下級生である私が未熟さ丸出しにどのような質問をしても、耳を傾けてくださった。

 朝海さんは、私を褒めなかった。でも、一度も拒むことはなかった。朝海さんのその、厳しくもあたたかいお気持ちに応えるためにも、少しでも「本当の」オスカル像に近づきたいと思った。
 下級生ながらに考え抜いた私は、一つの場面に注目した。それは、舞台の真ん中に一人立つアンドレが、オスカルへの秘めた愛をせつせつと吐露する場面であった。幼い頃からともに育ったオスカルとアンドレは、兄弟、親友同士のように暮らしてきた。男装のオスカルにとって、アンドレはいつも傍にいてくれる欠かせない存在だが、大人になるにつれアンドレはオスカルに恋心を募らせる。
 平民であるアンドレは、どんなにオスカルを想っても身分違いで結婚することは不可能だ。オスカルに近く寄り添い見守り続ける彼は、革命のその時が近づく中、 二人が初めて出会った日をまぶしげに思い出して一人語る。この時アンドレの心に映る姿こそ、私が体現しなくてはいけないオスカルだ。
 
 私は毎日、この場面を見るため舞台袖に足を運んだ。アンドレの言葉、眼差し、虚しく宙に差し出される手は、暗い無人の空間に幼いオスカルをはっきりと描き出していた。
 人を愛することも憎むことも、何もかもを知らない無垢な少女であったオスカル。男の子の姿をして剣の腕を磨く自らに尊大なまでの誇りを持ち、優しい家族から溢れんばかりの愛情を注がれていた、オスカル。短い場面とはいえその幸福を体感した私には、オスカルの辿る潔くも悲しい運命がより胸に迫るようになった。

 民衆への攻撃命令に背いたオスカルは、貴族の身分を棄てて平民たちを守ることを決意する。その決断が、彼女にとってどれほど大きく苦しい別れをもたらしたか、思い至る平民はいなかった。
「さらば! もろもろの古きくびきよ にどともどることのない わたしの部屋よ」
 これは、漫画の中で語られるオスカルの心の言葉だ。
 自らが信じる道を進むことを選んだオスカルは、生涯をかけ大切にしてきた人たちを手放す。彼女が人間らしく生きることは、家族と、心交わした王室の人たちとの決別を意味したのだ。
 革命のヒーローとして雄々しく闘いに挑むオスカルの勇姿に、子供の頃の私はただただ胸弾ませていた。しかし、かつて子供時代、青春時代を過ごした全ての大人にとっては、オスカルの決断は切ない。だからこそ、歓喜に沸く民衆を見送ったオスカルが孤独にたたずむ姿は、清々しい寂しさに輝いている。

 続いて私は、同年の全国ツアー公演でオスカルの少女時代を演じた。オスカル役は、水夏希さん。

戦闘シーンはダンスで

 私は初めて演じるときと同じように、一からオスカル役を学んだ。水さんの作り上げられるオスカル像に近づきたくて、再び見つめ続けるお稽古の日々を過ごした。

 水さんのオスカルは、剣さばきや身のこなしが流麗かつ力強い。軍人の厳しさと、女性としての柔らかさの鮮やかな対比が観る人を魅了した。沢山叱り励ましてくださるオスカル様は、前回の「ベルサイユのばら」の時からありとあらゆるアドバイスをしてくださっていた。水さんはご自分に厳しい演者というだけではなく、素晴らしい指導者でもあった。
 そんな水さんのご指導を思い出して作った新「オスカルの少女時代」。おまけに、今度は全国ツアーだ。毎日違う劇場で、戸惑うことなく冷静に演じなくてはいけない。難しい経験だったが、全国のお客様が「ベルサイユのばら」を観て歓声をあげてくださったのは大きな喜びだった。

 もちろん、少女時代のオスカル役だけに全力を注ぎ切るわけにはいかない。「ベルサイユのばら」は、権力に屈せず立ち上がった貧しき民衆たちの物語でもある。
 厳しい税金の取立てや先の見えない貧困、国民としての権利を認められない屈辱感に耐えかね、民衆はついに蜂起する。貴族の称号を棄てて闘うことを決意したオスカルに鼓舞され、武力で制圧しようとする軍隊に、彼らは果敢に立ち向かう。

「シトワイヤン、行こう!」
 オスカルの魂の絶叫から始まる、バスティーユ陥落の場面。爵位を捨て一人の市民としてオスカルが闘うこの場面では、壮大な群舞が繰り広げられる。わずか4分ほどしかない1曲の中に、時間の経過と戦闘状況の変化、様々な人物の心情など全てが表現されているナンバーだ。
 宝塚で上演される多くの作品の中で、この場面ほど厳しいお稽古はないのではないだろうか。演者は一糸乱れぬダンスを見せながら、役それぞれの思いを作り込む。一人一人が、歴史の波に飲み込まれていった名もなき人々だから。
 どんなに煌びやかで豪華な展開を重ねても、この場面に嘘があれば「ベルサイユのばら」は成立しない。そんなワンシーンを作り出すためには、最後列の下級生一人まで、血の通ったフランス市民であることが、求められるのだ。

ブロンドの髪振り乱し

 3度目は2013年、壮一帆さん主演の「ベルサイユのばら フェルゼン編」だ。
 オスカル、マリー・アントワネットとともにこの作品の主役を担うフェルゼン伯爵を中心とする物語である。
 フランス王妃との許されざる恋、歴史の渦に巻き込まれていく貴族たちの悲しい姿を描いた「ベルサイユのばら」だ。
 あろうことか、私はロザリーを演じることとなった。オスカルと強い絆で結ばれた、健気で愛らしい女性。またしても大役を任されてしまった重圧と闘いながら、どうすればロザリーを表現できるか試行錯誤の日々を過ごした。
 この「フェルゼン編」に登場するロザリーは平民のリーダーであるベルナールの妻となった、大人の女性として描かれていた。
 パリの下町で育った彼女は、波乱万丈の道を歩む人物。運命的にオスカルと出会ったロザリーは、オスカルの屋敷で暮らすうちに社交界に出るようになる。凛々しく麗しいオスカルの優しさに包まれ、ロザリーはオスカルに対し恋に似た思いを抱く。
 やがて、貴族の社会やフランスの現状を知り広い視野を得た彼女は、ベルナールとともにパリへと戻る。それからは、色褪せない憧れの人としてオスカルに敬愛の念を抱き、慕い続けるのだ。

 ちなみに、数多のオスカルファンにとって、妹ポジションであるロザリーは嫉妬の的である。私もかつてそうだったが、全国の少女はロザリーになった気持ちでオスカル様を想い、毎晩枕を濡らしたものだ。

 7年ぶりに再会した「ベルサイユのばら」。ロザリーの目を通して見るオスカルは、また違った魅力を輝かせていた。

 貴族としての自分、当時の女性の生き方に疑問を抱くことそのものがオスカルの飛躍的成長である。また、新たな時代が到来し、歴史が大転換を迎えることをも表している。
 オスカルは女性の典型的なあり様に収まらず、どこまでも自由を希求していく。
 だから、ベルナールに「王宮の飾り人形」と罵られた近衛隊を自ら辞め、平民の兵士が多い衛兵隊の隊長となるのだ。「王宮の飾り人形」という表現はオスカルに衝撃を与え、彼女の繊細なハートは深い痛手を負う。その後この言葉はお父様への口答えにも応用されており、親子で受けたショックの大きさは計り知れず……。なかなかのパワーワードとなったのは、また別のお話。

 オスカルは、自分の生死より遥か遠くを見据えている。国家の行く末と、全ての人が平等に暮らせる世の中を作るという、究極の理想を掲げている。
 何度踏まれても立ち上がる雑草の様な強さをもつロザリーにとっても、オスカルは希望の象徴、身分や立場を超えて全幅の信頼を寄せるに値する人物だった。
 また、同じお屋敷に住みオスカルの暮らしを側で見て過ごしたロザリーは、アンドレの存在がどれほど強くオスカルを支えていたか知っていた。
 何が起ころうと、オスカルの傍らにはいつもアンドレがいた。アンドレがいたからこそ、オスカルは軍服を纏い民衆の先頭に立つことが出来たのだ。

 さて、漫画「ベルサイユのばら」の素晴らしさの一つは、劇的な展開はもちろん、絵柄の美しさでもあるということは、言うまでもない。描かれた人物は一コマごとに独立した絵画の様に完成されていて、読者にため息をつかせる。

 その「美」を表現するために、宝塚歌劇における「ベルサイユのばら」の随所には、独特の様式美がある。抱きしめ合うオスカルとアンドレ、二人の顔が完璧な角度とタイミングで客席を向く。死に際のアンドレの瞳が最も輝いて見える目線の方向。そんな風に計算され尽くした演技の型が初演時から受け継がれ、美しいポーズや華麗な動きを追求した形が多用されている。だが、この様式美は、外見だけを飾った演技ではない。

 この公演でオスカルを演じたのは、早霧せいなさん。美しくも強く儚い、完璧なビジュアルを表現しながら人物像を深く掘り下げ、感情の動きを細密に作り上げていらした。

 バスティーユ陥落の場面。何発もの銃弾を胸に受けて倒れたオスカルは、言葉に出来ないほどの凄絶な表情を浮かべていた。輝くブロンドの髪を激しく振り乱し、最愛のアンドレに縋ろうと叫ぶ瀕死のオスカル。
 それは夢物語の主人公ではなく、革命に身を投じ、歴史の狭間に消えていった数えきれない人々の中の一人の姿だった。
 生々しい体温を感じるオスカルこそ、激動の時代をひたむきに生き抜いた女性として、最も輝く最期を演じられる。美しく見える「型」とは、生身の感情が溢れてこそ舞台で映えるものなのだ。

 4回目の「ベルばら」は、同じく早霧さん主演の全国ツアー公演「ベルサイユのばら オスカルとアンドレ編」であった。私が演じたオスカルの姉オルタンスの目線は、またしても違う色彩を見せてくれた。

我が妹は宿命の道へ

 一番下の可愛い妹、感情豊かで活発で、ギリシャ神話の少年の様に美しいオスカル。その妹は、宿命を背負っていた。
 彼女の望みや苦悩にかかわらず、軍神に選ばれ人民のために闘う使命を与えられているかのようなオスカルは、家族の温もりに囲まれていても常に孤独をまとっていた。
 親しい妹でありながら、オスカルは崇高な人であった。
 また、男として生きるオスカルが胸に秘めていたのが、女性としての心だ。マリー・アントワネットの恋人であるフェルゼン伯爵への報われぬ恋に苦しみ、ジェローデルからの熱い求婚に心揺れるオスカル。男装をして誰よりも勇ましくあることを自ら選んだとはいえ、彼女の心の底には女の悲しみが宿っていた。
 誰にも打ち明けられない思いに、家族は気づいている。だが、痛々しいほど張り詰めたオスカルの悲壮な覚悟に気圧されて、その苦しみに触れることはできないのだ。
 慰めたからといって、オスカルの苦しみが和らぐことはないと、姉オルタンスは知っていた。
 母であるジャルジェ夫人が、無心にバイオリンを奏でるオスカルを見て涙を流し、「あなたが遠くへ行ってしまうような気がしてならない」と語る場面がある。それはまさに、オスカルを愛する人たちが感じていた、悲しい予感であった。
 
 しかし原作の漫画は、オスカルとアンドレの死をもって終わるわけではない。
二人がパリの戦闘で命を落とした、その後の場面。かつてオスカルの肖像画を手掛けた画家が、オスカルの生家、ジャルジェ家のばあやさんを訪ねて来る。
 オスカルを育て、アンドレの祖母であるばあやさんは、何も言わず横たわっている。その傍には、ばあやさんが生涯深く愛した二人の面影が穏やかに寄り添っている。闘いを終えたオスカルとアンドレが、この懐かしい屋敷の暗がりで大好きなばあやさんとともに憩っているような光景。
 私にはその場面こそが、オスカルとアンドレの物語のラストシーンに思えてならない。

 誰もが胸を高鳴らせる漫画の一ページ、舞台のワンシーン。人はその華やかさの中に、確かに人間の歩みを観る。
 この物語の中に生きる人々は、遠い時代の異国にいるヒーローではない。夢物語でありながら、現代に生きる人々と変わらない悩みを抱き、誰かを愛し、ただひたすらに生きている。

 その中で最も愛されるオスカルは、言うまでもなく魅力的な人物だ。私ごときが語るなどおこがましいとしか言いようがないオスカルだから、私が演じた三人から見つめた彼女を語ってみた。その強さ、弱さ、家族と恋人への愛。三人の視線の先に浮かび上がったのは、まぎれもない、一人の人間の姿だった。

 時代も国も、漫画と舞台という世界をも超えて、私たちはオスカルの生き様に触れる。一輪の白薔薇のようなそのまっすぐな生き方は、今も私たちを魅了してやまない。

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