ザ・ブックレビュー 宝塚の本箱
2022/07/22

「友情とは相手が生きているあいだに発揮するもの」 元タカラジェンヌが熱く語る、不朽の名作『グレート・ギャツビー』の古びない人生哲学

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緻密な翻訳の世界

 それから実に30年近く経った今、私は小説『グレート・ギャツビー』を読んだ。空っぽの器に少しずつ水が満ちていくように、ゆっくりと物語の世界に入っていく感覚があった。

 村上春樹さんの翻訳は、曖昧な情景描写も詳細に日本語にうつし、人物の心情を少しの取りこぼしもなく緻密に書き切っている。「まるで映像を見ているように」というよりも、この目で見ているのと変わらない鮮やかな光景がそこに見える。後書きを拝読して、並々ならぬ覚悟をもってその力を注がれたことに驚嘆した。

 そんな見事な翻訳では、ギャツビーの恋心も、彼の目に映るまま、感じたままが書かれ、極めて個人的な感覚が伝わる。

〈もしこの娘にキスをして、この言葉にならぬ幻影を、彼女の限りある息づかいに永遠に合体させてしまったら、心はもう二度と軽やかに飛び跳ねることはないだろう。神の心のごとく。それが彼にはわかった。だから待った。星に打たれた音叉(おんさ)に、今一刻耳を澄ませた。それから彼女に口づけをした。唇と唇が触れた瞬間、彼女は花となり、彼のために鮮やかな蕾(つぼみ)を開いた。そのように化身は完結した〉

 デイジーは、ギャツビーの憧れそのものだった。子供の頃にはデイジーに共感できなかったが、今回小説を読み進めるうちに、時代を追いかけるように生きる彼女の懸命さが見えてきた。デイジーの言葉や表情に垣間見えるのは、いつまでも少女を思わせる健気さと可愛らしさで、会う人がたちまち彼女に惹かれてしまう魅力のひとつだった。

〈雨はまだ降り続いていたが、西の方で暗い帷(とばり)が割れ、ピンクと黄金色に泡立つ雲々のうねりが海上に見えた。「ねえ、あれを見て」と彼女はそっと囁くような声で言った。それからひと息置いて続けた。「あのピンク色の雲をひとつとって、そこにあなたを封じ込めて、あっちにやったりこっちにやったりできるといいのに」〉

 太陽の残照に照らされた、うっとりするようなデイジーの微笑みが目に浮かぶ。

 今回観た同作品の映像は、2008年に日生劇場で上演された「グレート・ギャツビー」で、主演は当時の月組トップスター、瀬奈(せな)じゅんさんだった。小説を読了した直後の私には、面白いことに、この物語の違う「顔」が見えた。

 舞台では、ギャツビーの半生が、スリリングな展開 で描かれる。宝塚の男役、それもトップスターが演じるギャツビーは、惚れ惚れするほど格好良い。洗練された身なりで、社交界の名士たちに囲まれ、酒を飲み交わす。堂々と光を浴びる一方で、ギャングと渡り合って危険な仕事に手を染めている。それも全ては理想の人生を手に入れるためで、その目標の先には一人の女性への恋がある。影を背負った男が貫く一途な愛は、観客の心を引き付けて離さない。狂騒のアメリカで巻き起こる人間ドラマの影の部分に、エンターテイメント性に富んだ爽やかさが加味され、舞台を明るく彩っていた。

 宝塚歌劇らしさが発揮されるシーンが、豪華なパーティーの場面だ。ウェーブヘアの娘役さんたちが、ゆったりとしたドレスに身を包んでチャールストンを踊り、夜の宴を盛り上げる。エスコートする男役さんの身のこなしの流麗さに、夜会になれた人々の雰囲気を感じる。小説にはない華やかさ、といいたいところだが、原作の『グレート・ギャツビー』のパーティーシーンも臨場感たっぷりだった。グラスにシャンパンが注がれる音、人々の間を縫って動く誰かの爪先、秘密めいた目と目の会話。言葉を追うだけで衣ずれやバンドの演奏が聞こえてきそうな描写は、舞台以上の迫力を感じた。

最も無力な男の変貌

「グレート・ギャツビー」に登場するのは、上流階級の人々だけではない。野暮ったい風貌でおどおどとトムに話しかけては煙たがられる、自動車修理工場を営むウィルソンは、その影の薄さを笑われている。

 彼の妻マートルは若く活力に満ちた女性で、トムの愛人だ。彼女は風采の上がらない夫ウィルソンに嫌気がさし、トムとの関係に喜びを見出している。マートルを演じたのは、憧花(とうか)ゆりのさん。派手な舞台メイクと衣装で遊び好きな女性を表現しながらも、彼女が抱える孤独を描き出していた。

 流行最先端の装いやダンスなど、娯楽に興じる女性たちが街に溢れていた時代。だがその一方で貧困から抜け出せず、終わったばかりの戦争の不安感が拭えないまま虚しい心を抱える女性たちもいた。 浅はか に見えるマートルの笑顔は時折、先が見通せない未来への焦燥感を帯びる。身勝手に撒き散らされる主張もただのわがままではなく、誰にも届かない思いを必死に訴え続ける彼女の強さだった。不幸な最期を迎えるマートルを「自業自得」と切り捨てられないのは、彼女もまた時代の狂乱と狡猾な男性トムに翻弄された一人だからだろう。憧花さんの演技は、いわば「嫌な女」であるマートルを、不思議と応援したくなる女性に作り上げた。

 一方、専科・磯野千尋(いそのちひろ)さんが演じたウィルソンは、平凡な日常を積み重ねてきた男だ。先行きの不安に苛まれても妻を心から愛し、平穏な現状にそれなりに満ち足りている。弱々しい笑みや力のない声からは、彼の持つ控えめだが確かな誠実さがにじみ出る。妻を失った彼が大きく変貌するシーンは、このお芝居のクライマックスといえる。

 妻と死別したことに加え、妻の心が他の男に移っていたという事実が、ウィルソンの心を打ちのめしてしまった。夜明けの海を背に、ギャツビーと対峙するウィルソンは、これまでの人生で彼が飲み込んできたけれど確かに持ち続けてきた、揺るぎない意志を滲ませていた。磯野さんの、闇に引き込まれていく人間の悲しみを思わせる暗い眼差しが、強烈な印象を残す。物語の中で最も無力な存在だった男が、皮肉にも、この話を結末へ導く力を持ったのだ。

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