トミヤマユキコ「たすけて! 女子マンガ」
2017/02/06

「ベルばら」以降に登場した“塗り薬のようなエロ”(「エロい女」その1)

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 女の人生をマンガに教えてもらおう! をテーマに文芸誌『yomyom』で連載してきたトミヤマユキコさんの「たすけて! 女子マンガ」。前号(秋号)に掲載された最終回のテーマは「エロい女」です。なかなか人には聞けない、しかし避けては通れないエロ事情。そんなときは……マンガを開くべし。そこには、エロをこじらせた女、清々しいまでにエロい女、プロのエロい女など、さまざまなエロ当事者の生き様があるのです。

* * *

 今回のテーマは「エロい女」である。だが、そもそも、なにをもって「エロい」とするかが、けっこう難しい。エロいことを言ったりやったりすれば即座にエロくなれるかといえば、案外そうでもない。明るいエロが好きな人もいれば、暗いエロの方が燃えるという人もいるし、フェチの世界なんて、いよいよ千差万別である。

 ちなみにわたしの20代は、下ネタを言い過ぎては「はしたない」と叱られ、ならばと思って黙っていると、美人でも巨乳でもないのでアピール力に欠けるというバランスの悪さに泣かされ、散々なものだった。

 どんな人でも、見た目とか雰囲気に合った、ちょうどいいエロ塩梅というものがあるのだろうが、わたしにはそれが全然わからなかった。女子校で「男役割」をやっていたことも大きいのかもしれない。大学に入って以降、男ともだちはたくさんできたが、何かが起こりそうな気配はゼロだった。友だちにはなれるのに恋人になれないのだとすれば、それはエロさの問題だと思っていた。

 自分がエロくない女だと悟るきっかけとなった出来事がある。音楽サークルの先輩に「うわ! お前の手すげえ骨じゃん! 気持ちワルっ!」と言われたことだ。CDか何かを手渡すときに、一瞬手が触れただけでそう言われてしまった。お互い何の恋愛感情も持たない関係だったからこそ、余計に「ああ、冷静に客観的に考えて、わたしは気持ち悪いのだな」と思った。それまでも、貧乳をからかわれたりしたことはあったし、6年間セーラー服で電車通学をしていたのにナンパにほとんど遭わなかったので(ブルセラ&援交の全盛期なのに!!)あんまりエロくない女なのだろうとは思っていたが、気持ち悪いとまでは思っていなかった。だから先輩の言葉に傷つきつつも、心のどこかで納得してもいた。これまでの非モテぶりは、そういうことだったのかと。「わたしは骨と皮だけの気持ち悪い女」、このイメージは、その後かなり長い間わたしを苦しめることになる(じゃあなんで結婚できたんだお前は!と言われそうだが、結婚はパートナーと推進する事業に近いので、エロくなくてもその他のポイントがそれなりに高ければなんとかなるのである)。

◆エロという「力の遣い手」

 エロには正解がない。相手によって、あるいは、シチュエーションによって、何がエロいかなんて、簡単に変わってしまう。だから、みんながみんな泪(るい)ねえさん(北条司『キャッツ♥︎アイ』)をエロいと思うわけじゃないし、わたしみたいなガリガリ人間をエロいと思う人もいるのだろう(わたしにとってエロい女の代表は今も昔も泪ねえさんです)。でも、それは理屈であって、実際のところ、自分のような者をエロいと思ってくれる相手に出会える確率は……低い。

 だからわたしは、誰もがエロいと感じるような、メジャーなエロへの敗北感を感じてしまう。たとえば、壇蜜や橋本マナミのことを世のおじさんたちはエロいと言うが、女のわたしだってエロいと思う。不特定多数を惹きつけるエロさは確実に存在するし、そういうエロさは、ものすごい「力」だと思う。

「力」と言えば、ちょっと前に壇蜜が新聞の人生相談で、同級生からの「パンツ見せて」発言に悩む女子中学生に対して「また見せてと言われたら、手を握り『好きな人にしか見せられないの。ごめんね』とかすかに微笑んでみては」とアドバイスし、炎上騒ぎを引き起こした。これは完全に「力の遣い手」ならではのアドバイスであって、ふつうの人間が真に受けたらダメなやつである。

「その困った君はきっと貴女が好き」という壇蜜の予想も、人として舐められてるからセクハラされる(勇気をだして戦わない限り終わらないかもしれない)という可能性を排除している所に、力の遣い手感がよくあらわれている。エロい女のプロは、妖術使いのように、エロさで人を惹きつけ、コントロールする。それはすごいことだ。とてもじゃないがかなわない。でも、そうしたプロのアドバイスは、万人向けではない。そしてわたしは万人の側にいて、さらに気持ち悪い女疑惑があるという圏外っぷりなので、あの人生相談を読んだ時、べつの国、べつの星の話を聞かされているような気分になった。わたしの国、わたしの星であれば、「あなたは好かれている」「あなたは魅力的である」という前提がまずおかしいからだ。相談主も、肉体的に魅力がないにもかかわらずパンツ見せろと言われることを疑問に思っていたが、その気持ちはよく分かる。わかりやすくエロければ、そりゃ「パンツ見せて」ぐらい言われるかも、と素直に思えるのだろうが、そうじゃないから相談主は混乱したのだ。この人生相談は、エロい女とそうじゃない(という自意識を持つ)女の断絶をはっきりと示した好例である。

◆塗り薬のようなエロもある

 では、エロくない女は永久にエロくなくて、負け組で、ずっと泣いてなきゃいけないんだろうか。そんなことはない。少なくとも女子マンガには、わたしたちをエンパワメントしてくれる良作がたくさんある。

 歴史を振り返ってみれば、ふつうの少女マンガでセックスなんてとんでもない、という考え方が『ベルサイユのばら』におけるオスカルとアンドレのベッドシーンで大転換を起こして以降、とくにエロティックであることを謳っていない作品にもセックスシーンが描かれるようになり、マンガのエロ表現はずいぶんと変わったのである。『ベルばら』でオスカルとアンドレが結ばれるのは、必然であり、読者の願いでもあって、確かにエロいのだけれど、それを上回る感動があることは読めばわかる。女に生まれながら軍人という男仕事に人生を捧げたオスカルと、その人生をリスペクトし、部下として支えながらも、彼女に想いを寄せるアンドレ。階級差を乗り越え成就した愛の証としてのセックスシーンは、この作品にどうしても必要なものだ。

 また、男女カップルとは少し意味合いが違ってくるが、竹宮惠子『風と木の詩』の少年愛も、マンガのエロ表現を大きく躍進させた。異国の男子寮で繰り広げられる少年同士のセックスシーンは極めて耽美的であるけれども、少年たちのバックグラウンドが明らかになるにつれ、ただのエンタメとして消費されるエロとは別種の雰囲気をまといはじめる。極めて特殊な生育歴によって、身体を通じてしか他者と関われなくなってしまったジルベールと、そんな彼を受け入れると決めたセルジュによるベッドシーンは、悲しいほど美しい。

 ジルベールが女の子と見まがうばかりの美少年であることを根拠に、この少年愛を異性愛のヴァリアントとして見ることも可能だが、彼らが同じ少年の肉体を持つことによって「抱く/抱かれる」の非対称性が薄れ、お互いが対等に「抱き合える」関係になっていることは、やはり異性愛にはないポイントである。これは、マンガ研究のジャンルですでに指摘されていることであるけれども、そうした分析を知らずとも、やはり男女カップルのそれとはまた違ったエロさがあると思う。

 このように、必然性をはらんだエロを切実に描いてくれた『ベルばら』や『風と木の詩』のおかげで、エロくて素晴らしい女子マンガがたくさん生まれた。とくに「ヤング・レディース」と呼ばれる成人女性向けジャンルからは、コンスタントに名作が生まれている(やまだないと、南Q太、魚喃(なななん)キリコといった先生方の作品をストーリーとエロさの両面で高く評価しているのは、わたしだけじゃないハズ)。ただ「抜くため」のエロマンガではなく(まあ抜いてもいいんですが)、エロい女になれなくてメソメソしているわたしのような人間が読むべき、塗り薬みたいな作品もあるのだ。以下、具体的に見てゆこう。

《「エロい女」その2につづく》

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