あのとき聴いた音楽 高畑鍬名

「小説新潮」発 あの人のとっておき

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ファスト教養の時代に新海誠アニメを0.6倍速で視聴する妖怪の名は

「え、でも瀧くんはTシャツ入れてましたよね、奥寺先輩とのデートのとき」「いや、あの映画には、タックインは登場しません」私は即座に否定した。何度も何度も、繰り返し見ていたからだ。

『君の名は。』の主題歌が流れるシーンには、約30人の私服のエキストラが登場する。三ヶ月前、私は彼らがTシャツの裾をズボンの中に入れているか、0.6倍速で視聴し、丹念に調べていた。

 ぜーんぜーんぜーんせかあらぼーくは〜。すべての疾走感を失うかわりに、ゆっくりと確実に、モブキャラの衣装を確認していく。主人公の立花瀧と宮水三葉をはじめとして、主要な登場人物がタックインしていないことは、2016年の公開当時にスクリーンで1倍速なりに把握していた。

 今年、私はTシャツの裾さばきの歴史的変遷を『Tシャツの日本史』という本の中でまとめた。そこでは新海誠作品を0.6倍速で視聴した結果を、「これまで男性主人公がTシャツをタックインしたことがない」「エキストラの男性はタックインしている」「いよいよ次回作では男性主人公がタックインをする可能性があるかもしれない」と紹介している。

 いま、奥寺先輩とのデートの場面を0.6倍速で視聴しながら、私は青ざめている。大噓を書いてしまった?

 冒頭のセリフは、とある女性ファッション誌の女性編集者が本の刊行インタビューの際に発したものだ。彼女はその場で検索し、画像を私に見せてくれた。それを見ても、インには見えなかった。

 バイト先の先輩である奥寺ミキとのデートに立花瀧が選んだファッションは、青みがかった黒のジャケット、濃いめのベージュのチノパン、紺のスニーカーで、問題は、ジャケットの下に着ているVネックのボーダーTシャツである。

 くすんだ青緑、くすんだ黄土色、くすんだ白の三色が順繰りに描かれている。その裾を、入れているか、どうか。
 起き抜けに身支度をして四ツ谷駅まで走る立花瀧。マンションの廊下を駆け抜ける彼の姿を0.6倍速で確認する。インかアウトか分からない。

 取り寄せた公式ビジュアルガイドには作画監督によるキャラクターガイドがあり、そこでは明らかにタックインをしている。しかし本編ではインかアウトか定かではないのだ。家の中や、後半の旅では裾を外に出している。

 やがて決定的瞬間がやってくる。駅まで走る立花瀧を横から映したショットだ。0.6倍速ではなく、コマ送りで確認すると、走るたびにボーダーの一番下の色が変わっていく。完敗だ。ボーダーの一番下は、色が青緑になったり黄土色になったりする。彼はTシャツの裾をチノパンに入れ、少しだけ引っ張り出し、たゆませている。

 私の説は崩れ落ち、訂正を要する。その前に謝罪である。新海誠さん、事実でないことを本に書いてしまい申し訳ありません。訂正します。新海誠作品で、男性主人公がTシャツをタックインしたことは、あります。瀧くんはデートの日だけ、インでした。なぜ?

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高畑鍬名(たかはた・くわな)
1984年東京都生まれ。2004年、映画『紀子の食卓』に衣装助手として参加。10年よりタックイン/アウトの研究を本格的に開始。25年に『Tシャツの日本史』を刊行した。