もういちど会いたい 大庭繭
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手を伸ばす

先日、夫が真珠のピアスをプレゼントしてくれた。
琵琶湖に生息する貝の中で十年近くの歳月をかけてじっくり育ったものだという。丸みにそって揺らめく淡い光を撫でながら、ふと、真珠を孕んだ貝の肉の感触を想像した。
十代の頃、私は、母の本棚にある漫画や小説を片っ端から読み漁り、母のお気に入りの映画を何度も観た。母が愛するものたちは私にかけがえのない感情や体験を与えてくれ、私も母と同じようにそれらを愛した。母と私はひとつなのだと心から思っていた。
ある夜、母と一緒に映画を観ながら、ソファでうたたねをしてしまった。目が覚めて、歯磨きをしようと洗面所のドアを開けると、真っ暗な浴室からシャワーの音が聞こえた。浴室の扉の向こうに、輪郭がぼやけた母の身体が白く浮かび上がっている。
「どうしたの? なんで真っ暗?」
そう言って浴室の電気をつけると、中から「つけないで」と声がした。
「どうして?」
私は慌てて電気のスイッチを切った。
「なんとなく。節約になるかと思って」
強ばった響きをもった知らない声。泣いているような気配がして、母が急に遠くに行ってしまったように思えた。
すこしの沈黙のあと、
「一緒に入る?」
と訊かれ、咄嗟に断った。ただひたすらに怖かった。薄い扉を隔てた向こう側に、私の知らない母がいることが。
私にとって、母は世界のすべてだけれど、母にとってはそうじゃないと、このとき初めて気づいた。母の中に、私には触れられないところがある。私は生まれたときからずっと娘なのに、彼女はまだ母ではない人生の方が長いのだという事実に打ちのめされた。
逃げるように自分のベッドに潜り込んだ私は、母と一緒にお風呂に入る夢を見た。
じっとりと重くなった闇を胸いっぱいに吸い込む。石鹼の甘い匂い。私たちの身体の輪郭は白くふやけて、触れたところからゆっくりと溶け合ってゆく。母の肌と私の肌が地続きに繫がって、私たちがかつてひとつの身体を共有し、体温を分かち合っていたことを思い出す。母の涙が私の頰を流れる。唇はびしょびしょに濡れてしょっぱい。体温と同じ熱をもった涙が身体中を伝う。お互いの境界線はとうになくて、私のすべてが母で、母のすべてが私になる。
もし母と一緒にお風呂に入っていたら、と今でも思う。もう私にとっても母は世界のすべてではなくなってしまった。それでも、あの時の母にもういちど会いたくて、私は自分の小説で、お風呂の場面を何度も書く。
浴室の電気を消して湯船に身体をゆっくりと沈める。濡れた手でそっと耳たぶに触れた。真珠は、自分を育んでくれた貝の身体のやわさを、つめたい波から守ってくれた温もりを今でも覚えているのだろうか。私は、かつて分け合っていたはずの感触に、体温に、手を伸ばす。
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大庭繭(おおば・まゆ)
1995年生まれ。作家。2024年に第7回ゲンロンSF新人賞を受賞。2025年に受賞作である『うたたねのように光って思い出は指先だけが覚えてる熱』を刊行。


