第十回 面接は不得意で

母へ

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前回のあらすじ

あなたはいつも口癖のように僕に「一人で大きくなったような顔をして」と言っていました。ほんとうはずっとそばにいてあなたをしあわせにしてあげたかった。

拝啓

 母へ

  今年の夏は異常に暑かったですね。僕が子供の頃、ここまで酷い暑さはなかった気がします。思い返せば、この五年ほど冷蔵庫なしで生活してきた僕ですが、今年の夏は暑さに耐えかねて、ついに買ってしまいました。
 それから、日々、自炊をして健康的な生活をしています。振り返れば、この数年、独身なのをいいことに生活というものを放棄してきました。
 改めて、冷蔵庫をコンセントに繋いで電気を流し、食材を入れて色々使ってみると、今更ながら新しい発見もありました。冷蔵庫を持つと在庫管理の必要が出てくるという側面があり、そこに意識を割くのも家事の一部なのだなと気づきました。きちんとした生活をしようとすると、家事というのは色々考えることが多く果てしなくて、今になると、大変なものだなと感じます。
 あなたは、こんなに大変なことを、いつもしていたのですね。

 三年生から今出川に大学のキャンパスが変わりました。
 それまでの京田辺キャンパスは田舎で、滅茶苦茶にふざけて暮らすにはいいところでしたが、とにかく何もなさすぎて人が鬱になると評判でした。駅から大学までの坂道が急で、あの通称「田辺坂」を登れなくて授業に出られず大学を中退する者が多いのだとか、学生たちは噂していました。とはいえ、まだ全く何者でもなく海のものとも山のものともつかぬ友人らと遊び暮らしていたあの頃が、人生で一番楽しかった時期だったような気もします。
 三年生からは今出川に引っ越し、生活も少し都会的になります。飲食店のバイトを一日でクビになり、テレアポのバイトでは寝ながら勤務し、昼夜逆転の生活を送りつつ、一日に映画を六本見続け、小説を書いたり自主制作の映画を撮ったりしながら日々を過ごしていました。
 三年生以降、僕の生活の感情のトーンは、次第に暗いものとなっていきました。就職活動の影がちらつき始め、僕はずっと憂鬱でした。就職、会社選び、エントリーシート…ある種の通過儀礼の始まりです。あの頃もいつもずっと言っていたことですが、僕は「嗚呼ああ働きたくない」と考えていました。
 あなたは父と違って少し楽観的で過保護なところがあり、大学院に進学してモラトリアムも継続したらいいのではないかと言ってくれていたような記憶があります。でもどこか本音では、就職して遠くに行って欲しくないという気持ちもあったのかなと思います。
 僕は大学卒業後にフリーターになる度胸もなく、さすがに「無い内定」で大学を卒業するのはもったいない気がして就職活動をすることにしました。気力や体力を奪われず、終業後には小説を書くことに力を注げるような仕事につきたいと考える一方で、ブラック企業に入ってしまい、心身の調子を壊してしまうことや、残業に追われて小説を書く時間が確保出来なくなることが心配でした。
 就職活動はつらかった記憶があります。
 まだ僕の頃は、いわゆる「圧迫面接」というのが一部で常態化していて、面接で嫌なことを言われることは多かった。私大で文学部、資格もなくスポーツもやっていない、それも男子、となると、就職活動では理不尽な目に遭うことも多いです。それでも当時はそんなものかなとむしろ自分が何か悪いような気すらしていて漠然と受け入れていました。結局100社程度エントリーし、50社程度に履歴書を送り、20社程度面接を受けたような記憶があります。
 そのときどきで自己PRというやつも、話す内容を変えていったりもしたのですが、あるとき魔が差して、随分素直に「自分は作家を目指していたがなれなかったので就職することにしたのだ」という説明をしてみたことがあります。そのときに面接官に言われたことが記憶に残っています。
「では、どうしてあなたは作家にならなかったのか?」
 そんなの、作家になれなかったからに決まってるだろ…と内心思いつつ、答えに詰まった。就職活動の面接は一種のゲームで、ルールがあり質問にも意図があるのはわかりつつ、憂鬱になりました。