透明になれなかった僕たちのために

透明になれなかった僕たちのために

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 会社員生活というライフスタイルはこの世で広く共有されているだけあって、中々それなりに過ごしやすくて、いざ適応してみると、このぬるい場所から出るのは逆にしんどくて。働いていると、本を読むとか書くとかがバカバカしくなってくるので、そのまま、本のことがどうでもよくなった勢いで全部投げ捨てて、穏やかに生活していきたいと思ったりもしました。
 働いていると理不尽なことも多いし、その理不尽に自分を適応させていく必要もあるし、それが続いていくと、やっぱり…大切なこととか譲れないこととかないほうが強いし、自分の弱さとかは尊重されないし、尊重されないものは持っていないほうが強いし、強くならないと会社には適応出来ないような気がするし。
 実家に帰っても、あなたも父も結局のところ僕が会社で働いて生計を立てていくことっていうのが本当に嬉しそうで、それを裏切りたくないし、だったら、ずっとあなたたちの期待に応えていきたいような気持ちにもなるし、そうやってみんなから嫌われずに生活していきたい。
 望まれるような生活を続けようかと随分迷ったのですが、これは会社員生活というものが自分の中にあるから、逃げ道が残っているからダメなのかもしれないという気がしてきて、あるとき、衝動的に会社を辞めたのでした。仕事内容も人間関係も特に問題はなかったのですが。事後報告だったので、あなたも父も、少し途方に暮れていたような気がします。
 辞表を出した後の帰りのバスでは、何か人生のレールを外れてしまったという恐怖で、普通に一人で泣いてしまって恥ずかしかった記憶があります。
 そのあと、会社を辞めたことを当時の恋人(正確にはそのときは一旦別れていたのですが)に話したら、どうして辞めたのかという話になり、「作家になりたいから」と初めて言いました。
「だったら結婚しようよ」
 と、彼女は言いました。
「結婚してうちで家事でもしながら、小説を書いたらいいよ」
 それで、僕は、結婚したいなと思ったけど、結局、知人全員と連絡を絶って、部屋に引きこもって小説を書き始めたのでした。
 僕には、もし結婚したらきっと幸せになるだろうという予感があって、満たされてしまったら小説が書けなくなるのではないかという不安がありました。それに、これが小説のことだけ考えて生きる最後の機会だという気がしていました。もし結婚したら、そんな風に小説を書くことは出来ない。何のあてもなかったけど、小説のためだけに生きてみたいと思ったのでした。

 先日、あなたもよく知っているその元恋人に連絡してみて、あなたの様子も伝えたら、体調を心配していました。どうしたら母が元気になると思うかと相談したら、僕が幸せになればいいと言っていました。それが一番難しいなと思いました。

敬具

スランプ気味の息子より

(つづく)
※この連載は不定期連載です。