第十二回 小説はうまく書けなくて

母へ

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前回のあらすじ

もし結婚したら・・・・・・満たされてしまったら小説が書けなくなるのではないか。それに、これが小説のことだけ考えて生きる最後の機会だという気がしていた。何のあてもなかったけど、小説のためだけに生きてみたいと思った。

拝啓

母へ

 今、僕は飛行機の中で、紙にペンでこの文章を書いています。
 急に、香港に行くことにしたのです。沢木耕太郎さんの『深夜特急』に漠然と憧れていた僕は、その第一巻の旅程をなぞるように、香港とマカオに出かけることにしたのでした。そもそも、僕は若いときからアジアを旅行したい気持ちが強く、お金がなかったりコロナだったりで諦めてきたものの、いずれ色んな国に行ってみたいと思っていました。それは、若い頃に読んだ本の影響もあります。そして、どうせなら『深夜特急』をなぞりたい、と考えたのです。副読本はマカオのカジノで数十億円を溶かしたことで有名な井川意高もとたかさんの『ける』です。マカオでは、『深夜特急』に出てくるリスボアや、『熔ける』に出てくるギャラクシーというカジノに立ち寄り、バカラや大小で一勝負してくる予定です。

 さて、紆余曲折あり、何不自由なく生まれ育ち、平々凡々と会社員生活を送っていた息子は、突然、そうした全てを捨てて、無職になりました。
 そのことで、あなたを不安にさせたり心配させたこともあったかもしれません。そんな僕に対して、あなたは呆れつつ、何か諦めたような様子がありました。
 作家になるために会社をやめるというのは、当たる確率が著しく低いギャンブルに全財産を賭けるようなもので、常識的な生き方ではありません。
 ともかく会社を辞めてしまった以上はもう言い訳は効きません。背水の陣というやつです。ぬるい生き方をしていては、滅んでしまうと思いました。
 ひとまず、僕は人と会うのをやめることにしました。
 友人知人との連絡の一切を断ち、孤独な生活を選びました。
 このまま破滅していくのかもしれないという恐怖はありましたが、不思議な高揚感もありました。無職で小説を書いているというのは随分シュールで楽しくて、ここまで本格的に捨て鉢な生き方を出来る自分が好きでした。
 ある意味では人生最高の時間だったのかもしれません。孤独で、頭の中が小説だけであること。他に何もなくて誰もいないような人生をずっと望んでいたのだから。
 思い返せば、あのときが一番純粋に小説を書いていました。いつまで出来るのかはわからなかった。それを最大限享受するために、コミュニケーションを遮断していました。
 ただ、一人で小説を書くのは孤独で不安で未来の見えないことでした。
 将来、どうなるかもわからないし、こんなことをいつまでも続けられるわけがない。いずれ貯金も尽きるだろうし、その間に作家になれなければ、また何か働かなければならなくなり、すると、小説にだけ集中して生きるということは難しくなります。
 会社を辞めるまでの自分というのは、どこか嘘をついて生きているようなところがありました。それまでは学生だったり会社員だったり、何かに属している状態があって、その合間に書いていただけです。