「最後の万能の天才」の知られざる日常を描いた『ライプニッツの輝ける7日間』試し読み②

〈新潮クレスト・ブックス〉翻訳者の目

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微積分や二進法、モナド論、計算機など、さまざまな分野で業績を残したライプニッツ。残された10万ページのメモの整理は今も続き、未発表だった研究が次々明らかになるとともに、再評価が進んでいます。

今なお全貌の見えない知の巨人に、新たな切り口から挑んだのが本書『ライプニッツの輝ける7日間』(ミヒャエル・ケンペ[著]、森内薫[訳])です。ライプニッツ研究の第一人者である著者ミヒャエル・ケンペは、ライプニッツの70年の生涯からあえて「7日間」だけを選んで重点的に論じることで、その人物像と創造の現場を立ち上がらせようとしました。

ライプニッツは、どのような時代を生き、どんな暮らしをしていたのか。創造の瞬間はいつ訪れたのか。本書の一部を紹介します。

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ライプニッツの輝ける7日間

ライプニッツの輝ける7日間

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 ライプニッツは1646年に学者の家に生まれた。母親は高名な弁護士の娘。父親は公証人であり、大学教授でもあった。ライプニッツは政治的および知的動乱の中で育った。当時、中央ヨーロッパの広い範囲が瓦礫と灰の中にあった。ヨーロッパを荒廃させた三十年戦争は終わったものの、あとに残ったのはヨーロッパ内部の不和と、ほぼ和解不可能なほど深く分裂したキリスト教の諸宗派だった。信仰と理性の統一もまた、合理主義と経験主義という新しい知見の台頭によって、崩壊の危機にあった。当時8歳の聡明な少年は独学で父親は2年前に世を去っていた―自宅の蔵書の助けを借りてギリシャ語、ラテン語、ヘブライ語を学んだ。次々に本をむさぼり読み、中には暗記した本もあった。

 この才能豊かな少年は父親の足跡をたどるかのように、最初は故郷の町で、のちにはニュルンベルク近郊のアルトドルフで哲学と法学を学んだ。だが彼は、博士号を取得し、さらに大学教授の資格を得たのちに与えられた教授職を蹴った。そして、新しい知識をたえまなく追求し吸収することを求め、旅に出た。確固たる計画があったわけではないが、ライプニッツは万物と万人への好奇心で武装し、まずはオランダに向かおうとしたものの、結局最初はフランクフルトに行き、次に1668年にマインツに逗留した。そこで彼はマインツ選帝侯にして大司教でもあるヨハン・フィリップ・フォン・シェーンボルンに仕えることになり、司法改革の主要プロジェクトにかかわった。

 マインツで過ごしたこの時期からライプニッツはすでに、政治と宗教と学問という大きくかけ離れた分野を往復する、のちに彼独自となる仕事のやり方を実践していた。三十年戦争とその余波の中で子ども時代を過ごしたライプニッツは、政治的に対立したヨーロッパを和解させ、キリスト教をふたたび一つにし、人間社会と文明のあらゆる分野で広範な進歩を促す方法を模索していた。理性にもとづいたキリスト教の信仰を世界に広めること、福祉全般を促進すること、そして科学と技術を通じて生活を改善すること―ライプニッツは生涯を通してこれらの理想を追求しなければならないと感じていた。

 だが、どうすればそれらすべてを達成できるのか? ライプニッツに必要なのは普遍的な科学の概念と、大勢の同盟者―同じ考えをもつ学者や、とりわけ強力な庇護者―だった。そしてそれらが、ヨーロッパの主要都市の一つに存在しているなら最高だった。そんなわけでライプニッツは、1672年の春に外交任務の一環としてパリに旅行するチャンスを提示されたとき、迷わずそれに飛びついた。課された任務は、フランス政府がオランダおよびドイツに対する戦争を始めないようにはからうことだった。ライプニッツは、エジプトを占領する軍事作戦をルイ14世に立てさせるという計画を作った。それは権力に飢えた王が東隣りの国に攻撃を仕掛けるのを防ぐためだけでなく、インドと東南アジアの富に手を伸ばせるような戦略的位置にフランスを置くためでもあった。ライプニッツは作戦実行のために、地中海と紅海を結ぶ運河の建設まで提案している。のちのスエズ運河のアイデアを先取りするようなこの「エジプト計画」はしかし、フランス王の耳に届くことはなく、起草直後にフランスがオランダを攻撃したため水泡に帰した。