第2回 「こころ」を収める器

夜明けまえに目がさめて

更新

イラスト/椋本サトコ
イラスト/椋本サトコ

 日記アプリを使いはじめて4年目に入った。手書きの日記の魅力も捨てがたいのだが、アプリだと検索ができる。これがなにかと―暇つぶしも含めて、役に立つのだ。
 たとえば2019年1月1日から本日(2022年2月7日)までの日記に「激怒」という言葉が登場するのは30回もある。「キレる」「キレそうになる」などの「キレ」は12回で、「叱る」は17回。怒りすぎである。一方、「反省」と「後悔」も22回と13回、「不安」に至っては82回を数えるのだから、なんとも感情の不安定な日々を過ごしているわけだ。落ち着きなさい、シゲマツくん。
 で、その検索機能を使って、新型コロナが日記に初めて登場した日を探してみると―。
 2020年2月13日だった。〈新型コロナウイルス大変な事態に〉とある。この日、国内で初めての死亡者が出たのだ。
 以来、75回も「コロナ」が登場することになるのだが、第5波が収まってきた2021年1027日に〈新宿の混み具合は、もうコロナ以前に戻りつつある〉と書いた自分の甘さが恨めしいほどの、すさまじい第6波である。ゼミの学生が持ち回りで書いている日記も、今年に入ってからは話題のほとんどがコロナになってしまった。それも、身近な人間が陽性になったり濃厚接触者になったり…。
 41人目のゼミ生の皆さんも、どうかご自愛ください。

       *

 新型コロナの感染の仕組みを解説するイラストや動画では、体内のウイルスがせきつばなどの飛沫ひまつに乗って口から外へ飛び出していく場面がよく描かれる。
 それを見るたびに、僕はこんなことを考えるのだ。
「話す」が「離す/放す」と同じ読み方をするのは、ただの偶然だろうか。自分の内部にあるものを外に向かって「離す/放す」―それが声によってなされる行為を、「話す」と呼ぶのではないか?
 じつは、この(いささか強引な)重ね合わせは、僕自身が幼い頃から付き合っていて、『きよしこ』や『青い鳥』といったお話で描いてきた吃音きつおんについて説明するときに、好んで使っている。
「吃音というのは、声がすんなりと自分の体から離れてくれないんですよ。身離れのいい肉や魚みたいに声がポロッと取れると楽なんですが、必死に力んで剥がさなくちゃいけなくて、しかもきれいに取れずに、骨にこびりついたものが残るんです」…吃音については、また別の機会に書くこともあるだろう。
 とにかく、自分の考えや思い―あえて雑に「こころ」とまとめておこうか、その「こころ」を声にして外に出すことを、「話す」と呼ぶわけだ。
 でも、「こころ」は「こころ」のままでは外に出せない。そこが厄介なのだ。水をすくって運ぶには両手でお椀をつくらなくてはいけないように、そしてウイルスが飛沫と一緒でないと身動きとれないように、「こころ」もまた、それを収めて外に運び出すための器が要る。
 この器というやつが、じつにバラエティに富んでいる。磁器に陶器に漆器に金物、皿に茶碗にお重にどんぶり…食器に素材やフォルムが各種あるのと同様、「こころ」の器も幅広く、奥深い。僕たちはいつも、表情やしぐさで「こころ」を伝えたり受け取ったりしている。どちらも大事な器だ。音楽や絵画で「こころ」を伝えるのが得意な人もいるだろう。声も忘れてはいけない。猫なで声から甘いささやき、おどけた声色、ドスをかせた恫喝どうかつに至るまで、声が「こころ」を伝える力は、ほんとうにたいしたものなのだ。
 そんなさまざまな器の中でも、とりわけ使い勝手が良いのが、言葉だろう。なにしろ言葉は、声だけでなく文字にもなる。話して聞いて、書いて読む。ものごころついたばかりの幼な子も、人生の黄昏たそがれを迎えた老人も、みんな言葉を使う。特別な技量がなくても、誰もが、それなりに使いこなしている。汎用性はんようせいがあるというか、よりどりみどりの食器がずらっと並んだ食器棚のようなものだろうか。
 ただし、よりどりみどりだからこその難しさもある。この器―この言葉は、ほんとうに「こころ」を正しく伝えているのか。せっかくの「こころ」が言葉で台無しになることがある一方で、言葉のおかげで「こころ」が引き立つこともある。「こころ」の重みに耐えきれずに割れてしまう言葉もあるだろうし、言葉の力に負けて恥じ入るしかない「こころ」だってあるだろう。
 言葉によって運ばれた「こころ」を受け取るほうも、しっかり考えなくてはいけない。盛り付けにだまされるな、器のキラキラに惑わされるな…いや、ほんと、盛り付け上手が多いし、上げ底の器がどんどん増えてるからね、この世の中…。
 小説や詩歌、戯曲などなど、言葉を使う表現ジャンルを味わうとき、僕たちは自分自身の食器棚に新しい器を加えているのだ。
 優れた小説を読み、詩歌に触れて、お芝居の台詞を耳にしたとき、「ああそうか、この『こころ』を伝えるには、こういう言葉もあるのか」と気づいたことはないだろうか。僕はある。何度もある。読み手として出会ったたくさんの書き手に心から感謝しているし、自分が書き手の側に回ったいまは、一人でも多くの人の食器棚にシゲマツ印の器が増えてほしいなあ、と願っている。
 純文学や詩歌の教えてくれる「こころ」の器は、ほんとうに繊細で、美しい。使いづらそうだけど、見ているだけでも幸せだから持っていよう、というのもいいじゃないか。この器に収めるべき「こころ」を自分が持つかどうか、いまはわからないけど、いつか訪れるかもしれないその日のために食器棚に入れておこう、ということもあるだろう。
 一方、エンタテイメントは、もう少し具体的に使いみちが見えるところが魅力なのだと思う。「そうか、あのときの『こころ』はこういう言葉に収めればよかったのか」と振り返ってみたり、「この器、さっそく使ってみようかな」と、食器棚ではなくテーブルに置いておいたり…。
 僕が心がけているのは、自分のお話で描く「こころ」は、なるべくじょうぶな器に入れて、読んでくださる皆さんにお渡ししよう、ということ。
 熱々のお湯を入れても氷を入れてもOK、小学生が乱暴に扱って床に落としても割れない、そんな言葉が好きだ。洗面所で使うプラスチックのコップを思いだすと、僕の言いたいことがわかっていただけるかもしれない。ちなみに僕が仕事場の洗面所で使っているコップは18年前に100円ショップで買ったもので、いまも現役バリバリである。うがいする前にちょっとフチを噛んでみると、ミントの香りがジュッと染み出てきて、美味くて美味くて…嘘ですよ、この話は嘘。でも、タフな器―じょうぶな言葉が好きだというのは、マジです。