第6回 僕は「戦後」に生まれた。きみは――?

夜明けまえに目がさめて

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イラスト/椋本サトコ
イラスト/椋本サトコ

 新型コロナ禍ですっかりごぶさたになってしまったが、コロナ以前はたまにというか、ときどきいえ、すみません、しょっちゅう、ゼミの学生諸君とメシを食い、酒を飲んでいた。
 短い休憩を挟んで3時間という長丁場のゼミである。終わるのが午後6時。5時半を回ったあたりからは、学生たちの「メシ食わせろ」「飲みに連れて行け」という無言の「圧」を感じながらの授業になる。二週に一度はその「圧」にあえなく屈してしまい、教室を居酒屋やファミレスに移しての補講を始めたものだった。
 しかし、それも、2020年2月を最後に途絶えてしまった。この3月に卒業した学生たちとは結局一度も酒をみ交わせなかったし、学生生活が残り半年余りになった今年の4年生とも、どうなるだろうか。せめて、しげゼミ伝統―焼鳥の串はずしの妙技を授ける機会くらいは欲しいものなのだが(焼鳥の串をはずさない流儀の皆さん、怒らないでね)
 だから、僕の体験した学生たちとの飲み会は若干古いものになってしまうのだが、それでも40年近い歳の差があると、酒の飲み方について「最近はこうなのか」と驚いたり戸惑ったりすることは少なくない。
 たとえば、飲み放題。幹事の学生が「宴会セットに飲み放題を付けました」と報告に来ると、僕はつい「うっしゃっ!」と力んでしまう。飲み放題となれば、まずはなにより元を取らなくてはならないし、そのあとは制限時間が来るまで、肝臓と膀胱の都合が許すかぎり、一杯でも、一口でも、一滴でも多く飲みたいではないか。
 ところが、学生たちは違う。おしゃべりに興じ、揚げ物をバクバク食べながら、マイペースでグラスやジョッキを口に運ぶのだ。一杯目のカシスオレンジがいつまでも卓上に残っている学生もいるし、食べることにすっかり夢中になって、たまーに、思いだしたようにしか酒に手を伸ばさない学生もいる。
 もちろん、それはそれでいいのである。アルコール・ハラスメント、だめ、絶対。
 ただ、この飲み方だと、せっかくの飲み放題なのに、あまりメリットがないんじゃないか
 そう思って、学生の一人に訊いたことがある。元が取れたかどうかの飲みっぷりだった彼は、「だって計算が簡単じゃないですか」と言った。さらに隣の学生は「幹事もゆっくり飲めるし」とも言った。
 一瞬きょとんとしたあと、ああそうか、と腑に落ちた。要するにサブスクと同じ発想なのだ。飲み放題に「定額」を補って、「定額飲み放題」その重心は、「飲み放題」よりも「定額」のほうにある。料理は宴会セットで定額、酒やソフトドリンクも飲み放題で定額なら、精算のときに「調子に乗って飲みすぎたかな」とドキドキせずにすむし、幹事も先に集金して心置きなく飲み会を愉しむことができる。
 なるほど、飲み放題にはそんな使い方もあるのか。虚を衝かれた思いだった。考えてみればあたりまえのことなのに、オレ、よっぽど「放題」しか見てなかったんだな
 もちろん、学生たちも「放題」を無視しているわけではない。実際、これがスイーツや焼肉なら、みんながんばって食べるらしい。だが、酒は酔っぱらう。もともとアルコールに弱い体質の人もいるし、適量を超えると、当日も翌日も大変なことになってしまうので、「放題」とはいっても、おのずと限度が生まれるわけだ。
「単品でドリンクを頼むよりは割安なんだから、そんなに無理しなくてもいいんじゃないですか?」
 確かにそのとおりなのだ。元を取ることやお得感を増やすことが最優先になってしまうのは、まさに本末転倒ではないか。
「先生、貧乏性ッスねえ」
 ほっといてくれ。
 でも、そういうことを忖度なしに思い知らされるのが、ニワカ教師として過ごす日々の醍醐味でもあるのだ。

 新型コロナ禍の前の、そんなささやかなエピソードを、最近になってあらためて思いだす。
 あのときは、還暦間近のいい歳をして「放題」に平常心を失ってしまうオノレを恥じたのだ。年甲斐もなく、なにやってんだか、と自分にあきれたのだ。
 だが、いまは、ちょっと別のことを思っている。
 自分のセコい貧乏性は、年甲斐もなくというより、むしろ逆、この歳、この世代だからこそ、なのかもしれない。

       *

 この春から、岡山県にある実家の片付けを続けている。すると、ウチのおふくろは几帳面で物持ちのいい性格なので、「捨ててなかったの?」「こんなの、まだ持ってたの?」と驚くようなモノがどんどん出てきた。
 小学生のときの作文(われながら上手いんだ)とか、中学時代に学校に提出していた日記帳(学校に文句ばかり言ってる)とか、拙作『きよしこ』で描いた吃音きつおんの小学生向けサマースクールのテキスト(1970年代初期の吃音に対する偏見まみれだよ)とかこのあたり、また当連載で紹介させてもらうこともあるかもしれない。
 そんな「再会グッズ」の中に、母子手帳があった。それによると、僕は1963(昭和38)年3月6日の午前2時10分に生まれた。出産予定日は3月15日だった。出生時の体重は2600グラムで身長は50センチ、黄疸おうだんが少し出ていたらしい。
 予防接種の接種済証がたくさん貼られた手帳をぱらぱらめくっていたら、備考メモのページに、こんなことが書いてあった。
〈38年2月26日 ユニセフミルク1120g配給済〉
〈38年3月27日 ユニセフミルク1240g配給済〉
 ユニセフ
 飢餓や戦乱で苦しむ子どもたちの支援などで知られる、国連の補助機関である。正式名称は国際連合児童基金。もともとは、第二次世界大戦後に子どもたちへの緊急援助をおこなうための組織で、日本は最も主要な被援助国として、1949(昭和24)年から1964(昭和39)年まで、脱脂粉乳や医薬品などの援助を受けていた。
 母子手帳に記されていたミルクの配給記録も、その援助の一環だったのだ。細かく言えば、日付と脱脂粉乳の分量は手書きだったが、〈ユニセフミルク  g配給済〉はスタンプだった。システムに組み込まれているというか、当時の赤ちゃんはみんなユニセフのミルクを飲んでいた、ということなのだろう。
 母子手帳を閉じたあと、深々とため息をついた。「いやー、まいったなあ」と、つぶやきも漏れた。ユニセフによる援助が自分の生まれた翌年まで続いていたことは、知識として知っていたが、こうして〈ユニセフミルク〉という文字列を目の当たりにすると、あらためて、自分は戦後敗戦後の子どもなんだなあ、と痛感する。国際社会の援助を受けて大きくなったんだなあ。感慨とも負い目とも感謝ともつかない感情が胸に湧く。
 僕の手許にある最も幼い頃の写真は、生後2週間あたりに撮ったものだった。おふくろのおっぱいを吸っているモノクロ写真の自分が、アフリカの痩せた子どもたちの姿や、祖国から避難したウクライナの子どもたちの姿と重なり合う、とまでは言わない。ただ、ずいぶん間隔が空いていても隣り合っている、遠い遠いお隣さんなんだろうな、とは思うのだ。