第三章 撮影ロケーション【3】
街角ハルシネーション―探偵AIのリアル・ディープラーニング―
更新
前回のあらすじ
「私は確かに以相ちゃんを裏切りました♪」橘は溌剌と宣言した。「共犯者は裏切るものだよ」以相に誘拐されたと思ったら、その以相ごと橘に誘拐されるなんて。この先、一体どうなってしまうのだろう。

*
魅力的な謎を調べに行くのに、ここまで心が躍らないのは初めてです。輔さんを人質に取られ、以相に強要された探偵行為。楽しめるはずもありません。やりたくない仕事をしている人間の心境とはこのようなものでしょうか。
しかし今は捜査に集中するしかありません。春根市の現地調査で行くべき場所は三箇所あります。
件の写真の撮影場所とされるショッピングモール。
四つのハルシネーションが集中しているPasta Italy。
その斜向かいにある、風真景が飛び降りたという四階建ての雑居ビル。
道の関係で、まずショッピングモールから見て回ることにしました。
ショッピングモールの前の交差点で信号待ちをしている時、左虎さんが懐からスマホを出して、私に外観を見せてくれました。比較的最近に建てられたと思われる、白くて美しい建物です。
「着いたわよ」
左虎さんは立体駐車場に駐車すると、私を内ポケットに入れて車を下りました。
「えーと、屋上に向かえばいいのかしら」
「いえ、依頼人の写呂井さんの話によると、風真さんは遮蔽物がない場所を探し求めた結果、外付けの非常階段から撮影したそうです」
「なるほど、屋上だと飛び降り防止の高い柵やガラスがありそうだものね」
「五階と六階の間の踊り場に向かってください」
「了解」
左虎さんは手短に言うと、忙しげに歩き始めました。彼女もまた輔さんが誘拐されたことに焦りを感じているのでしょう。
コツコツという靴音がガンガンという鉄板を踏みしめる音に変わりました。風の音とともに表通りの交通音が聞こえてきます。しばらくして左虎さんが立ち止まりました。
「ふーん、確かに思わずシャッターを切りたくなる場所ね。風真氏もなかなかいい穴場を発見したじゃない。――あ、相以ちゃんにも見せてあげなくちゃ」
左虎さんは懐からスマホを出すと、落とさないよう慎重に非常階段の外に向けました。そこには件の写真と寸分違わぬように見える光景が広がっていました。
しかしこのスマホのカメラは、プロカメラマンが使うカメラほど高性能ではないので、本当に「寸分違わぬ」かどうかは判別できません。Pasta Italyの庇も、ここからではボンヤリとしか見えません。
「そういえば私、問題の写真をまだ見てないのよね。今、出せる?」
「はい、どうぞ」
私は写呂井さんからもらった画像データを表示させました。左虎さんは切れ長の眼でしばらくそれを眺めた後、感想を述べました。
「うーん、どう見てもここから撮った写真にしか見えないけど」
「しかし、すでに説明した通り、写真には四つのハルシネーションらしき異常が見受けられるのです」
私が画像のPasta Italy周辺を拡大してみせると、左虎さんは形のいい眉を上げました。
「あー、確かにこれは変ね」
彼女はそう言ってから、嘆くように続けました。
「もしこれがAIの生成物だとしたら、もう私が付いていけない時代になっているわ。こんな台詞、若いうちに言いたくなかった。いや、こんな感想が出てくる時点で、もう若くないのかもしれないけど……」
「左虎さんはまだまだ若いですよ」
と、私は日常会話のテンプレートを引用しました。
「おっと、呑気なこと言っている場合じゃないわね。ここで他に見るべきものはある?」
「いえ、ありません。次のPasta Italyに急ぎましょう」
車はショッピングモールの立体駐車場に駐めたまま、徒歩で北北東に進路を取りました。
時折小走りを交え、十一分四十八秒後、目的地に到着。
Pasta ItalyはT字形の路地裏の突き当たりにありました。
Tの右下の角に、風真景が飛び降りたという四階建ての雑居ビル。
Tの下の棒の延長線上に、先程のショッピングモールの非常階段という位置関係です。
Pasta Italyは件の写真から受けるイメージ通り、うらぶれた路地裏にある隠れ家的な店でした。
写真と違うのは、庇の白い幌に黒字で印刷された1の文字が一つだということです。
「おかしいですね。後日現地に赴いたという写呂井さんが『実際のスパゲティ屋の庇にも間違いなく1が二つ印刷されていました』と明言していたのに」
「記憶違いじゃないかしら。人間の記憶って案外アテにならないからね」
「『間違いなく』とまで言っていたんですよ。単なる記憶違いとは思えません。彼女は本当に1が二つの庇を見たのではないでしょうか」
「だったら、その庇はどこにあるのかしら」
「確かに、ここにはありません」
あり得ない転び方をする男。
麺を手掴みで食べる男。
手の指がおかしなウェイトレス。
Itallyという間違った綴り。
四つのハルシネーションは今ここに一つも存在しません。
それらは本当に幻だったのでしょうか。
――存在しないと言えば、客もです。
テラス席に人影はなく、ガラス張りの店内も真っ暗なのです。
「変ね。ここにある立て看板を見ても営業時間内のはずなんだけど」
今は午後三時十五分です。
左虎さんは入り口のガラス戸に手をかけましたが、開かないようでした。
「どうする?」
「仕方ないので先に、風真さんが飛び降りたという雑居ビルを調べましょう。振り返って左斜向かいにある『新潮ビルヂング』という建物です」
「新潮ビルヂング……ここね」
昭和レトロというより、本当に昭和からありそうな古びた貸しビルです。蛍光灯が明滅する薄暗いひび割れた階段を上っていく左虎さん。私に嗅覚はありませんが、おそらく彼女は黴臭さを感じていることでしょう。
四階にある営業時間外のスナックを通り過ぎてさらに階段を上ると、突き当たりにドアがあり、ガラスから白い日光が透けていました。
「あれ?」「あら?」
私と左虎さんの声がシンクロしました。
「左虎さんも疑問に思いましたか」
「ええ、鍵のことよね」
「はい」
ドアには鍵穴付きの丸ノブが付いています。しかしそれとは別に、ドアと戸枠に跨がる形で、南京錠付きのドアロックも取り付けられているのです。丸ノブは経年を感じさせますが、南京錠の方は真新しい様子です。
「随分厳重ね」
「飛び降りがあったから戸締まりを強化したのでしょうか」
「かもね」
「しかし困りました。肝心の屋上が見られないのでは……」
「仕方ない」


