第五章 山荘ディスソリューション【2】
街角ハルシネーション―探偵AIのリアル・ディープラーニング―
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前回のあらすじ
「犯罪は多くの人を不幸にする。《犯人》はその責任を取らなければならないの」橘はそう言った。「さて、君たち。立ち話も何だ。中で話そうじゃないか」

*
右龍司法は右龍都子を乗せた車椅子を押してスロープを上がっていく。橘に促されて、僕は後に続いた。
元首相の別荘らしく、玄関には来訪者を歓迎する高価な調度品が並んでいるようだったが、今の僕には一つ一つ鑑賞している余裕はなかった。
ふわふわした足取りで廊下を歩き、応接間と思しき部屋に通された。高級そうな黒革のソファがあったが、招かれざる客である僕が応接されるはずもない。司法は僕に目もくれず言った。
「橘くん、スマホをテーブルの上に置いて」
橘は言われた通りにした。司法と都子と橘がテーブルを囲んで、以相を見下ろす形になった。僕はどうしていいか分からず、少し離れたところからその輪を眺めるしかなかった。
壁に掛かっている猟銃がひどく威圧的だった。
司法は腰を屈めて、車椅子に座っている都子に呼びかけた。
「お母さん、やっと諸悪の根源を捕まえたよ」
「諸悪の根源とは光栄ね。《犯人》にとってそれ以上の褒め言葉はないわ」
以相はそう言ったが、司法は無視して母親に話し続けた。
「ほら、ご覧。この女がすべて悪いんだ。こいつのせいで行政も司法も死んだんだよ」
言われて都子はゆっくりとスマホを覗き込んだが、その目は焦点が合っておらず状況を理解しているとは思えなかった。
司法は諦めたように腰を伸ばすと、すっと歩き始めた。壁際の長机の方に向かう。戻ってきた彼は何かを持っていた。先の尖った何か――小型のドリルだ。
「あら、その野蛮なおもちゃで何をするつもりなのかしら」
表情はここからでは窺えないものの、以相は声色一つ変えずにそう言った。
司法は構わずドリルを起動させた。歯医者を連想させる不快な音が鳴り響いた。
「今からこいつを殺す。それですべてが終わる。終わるんだ」
やにわに司法が動いた。ドリルをスマホの上に振り下ろしたのだ。
その時、僕が何を考えていたか正確には言語化できない。だけど咄嗟に体が動いていた。
僕は、司法を突き飛ばして、テーブルの上からスマホを回収した。
心臓が破裂しそうなほど高鳴っている。肺が酸素を求めて呼吸を荒くしている。
部屋中の視線が僕に集まっていた。
姿勢を立て直した司法が、不思議そうに僕を見つめた。
「君は……何だ? どうして邪魔をする?」
僕は粘付いた口を開いた。
「あ――」
言葉が捜し物のように見つからない。
橘が聞き分けの悪い子供をなだめすかすように言った。
「合尾くん、コンテナの中でも以相ちゃんのこと庇ってたよね。もしかしてお父さんが作ったソフトだから思い入れがあるの? いつかは相以ちゃんのような良いAIになると信じているとか? だとしたら、甘いよ。悪は悪のままで、いつまでも変わらないんだよ」
今までの以相との思い出のうち、おぼろげながら暖かい色味が付いているものが脳裏に蘇る。彼女が父さんを殺したオクタコアへの復讐をしていたこと、四元館での共闘、そして今日のアイリッシュ・コーヒー……。
確かに僕は以相に甘いのかもしれない。だけど僕が言いたいことは少し違う気がする。
その時、僕の掌の中から以相の声がした。
「そんなに大切なスマホだったのかしら」
皮肉な口調だった。しかし液晶に映る彼女の表情には、明らかな戸惑いが浮かんでいた。
その顔を見て、僕は言うべきことが決まった。
「確かに以相は悪です。でも意思がある。人格がある。人間と同じなんだ。だとしたら、法廷で裁くべきです」
室内は沈黙に包まれた。
僕はおかしなことを言っただろうか。いや、これが僕の素直な気持ちなのだ。自分の中から出てきた言葉を、自分が信じてやらなくてどうする。
静寂を破ったのは、以相の高笑いだった。
「あなた、本当に面白いわ。その時はあなたに弁護をお願いしようかしら」
「以相……」
「何、真剣な顔してるのよ。生憎まだ捕まるつもりはないから」
「我が国では」
司法の言葉が割り込んだ。
「いや、世界中どこの国でも、AIに人権は認められていない。それを決めるのは君ではなく法律だ。そして法律を決めるのも君ではなく我々政治家だ」
「政治家? どこに政治家がいるって言うんです? あなたは立法さんじゃない。いい加減、目を覚ましてください、司法さん」
司法の顔がどす黒くなった。
「二度目だ。また私の名前を間違えたな。よりにもよって、あの忌々しい――」
「何度でも呼んであげますよ。あなたは右龍司法さん。公安の捜査官だ」
「違う――」
「違わない。あなたは警察官なんだ。犯罪者を殺すことがあなたの仕事なんですか? そうじゃないでしょう。犯罪者を捕まえること。それがあなたの仕事だ」
「先程の君の言葉を返そう。どこに犯罪者がいると言うのだね? そのスマホに入っているのはただの悪質なプログラムだ。破壊すれば、それで終わり。裁判など必要ない」
「そもそも今回のこれは、警察が認知していることなんですか?」
司法は言葉に詰まった。どうやらここが彼の負い目であるようだった。僕はそこを突いた。
強引な側面はあったけれど、国のために働いていた右龍司法に戻ってほしかったから。
「正式に、警察官として、以相を逮捕しましょうよ。悪を裁くなら正義であるべきだ」
「――もういい」
今まで聞いたことがないほど冷たい声だった。
「え?」
「おしゃべりは、もういいと言ったんだ。これだから愚民と話すのは嫌なんだよ。お前らはミクロな視点でしか考えないからな。だからマクロに動いている我々を理解できずに批判ばかりするんだ」
立法の言動のトレースだろうか。そうであってほしかった。
「どうしても邪魔立てするなら、こちらにも考えがある」
考え?
司法が足早に応接間を横切るのを、僕はぼんやりと目で追った。
彼が向かう先には、壁に掛けられた猟銃があった。
彼は猟銃を取ると、銃口を僕に向けた。
「――――」
黒くて小さい穴。
それが僕の方を向いている。
胸か、首か、顔面か、照準がどこに合っているのか考えたくもないが、とにかく僕の致命的な部位に向いている。
そのブラックホールに世界が吸い込まれるかのように、現実感が喪われていく。
なぜ僕はこんな山荘にいるんだ?
相以と調査に出かけたはずなのに、なぜ以相を庇っているんだ?
目の前にいる男は一体誰で、なぜ僕に銃を向けているんだ?
司法だと思っていた。だけど本当は立法なのではないか。立法が生きていたのではないか。
視界が揺れる。司法なのか、立法なのか、判らなくなっていく。
その男が何か叫んでいる。
「――――捨てろ。――――撃つぞ」
耳の奥で脈がうるさくて聞こえないんだ。もっと大きな声で言ってくれ。
視界の揺れがますます激しくなっていく。
地震?
違う、僕の膝が震えているだけだ。
分かっている。結局、僕は怯えているんだ。
だってそうだろう? あの穴から弾が発射されたらどうなる?
十中八九、僕は死ぬ。良くて重傷。いや、多分死ぬ。僕は運が悪いから。
死。
その一文字を意識した途端、胃がせり上がってきた。
死。死。死。
人はいつか死ぬ。
だけど今なのか?
二十年足らずしか生きていないのに?
何も悪いことをしていないのに?
善人が悪人を庇って死ぬのか?
何だかすごく損した気分じゃないか。
「――――捨てろ。――――撃つぞ」
やべ、「善人」とか「損」とか、随分自己中心的な考え方になっていた。
だけどそれが人間の本質だろう。
誰しも自分の身が一番大切なのだ。
さあ、今すぐこのスマホを投げ捨てろ。そうしたら自分の命は助かるんだ。
どうした。早く捨てろ。悪人の命より自分の命の方が大切だろ。
捨てろ!
……しかし、スマホは磁石のように僕の手に吸い付いて離れなかった。
なぜ。
どうして。
僕はそんなに以相に対して個人的な感情を持っているのだろうか。
いや、違う。
以相がどうとかじゃない。
司法がどうとかじゃない。
僕自身の問題だ。
自分の考えが誰かにねじ曲げられないこと。
それは命より大切なことなのだ。
……いや、「命より」は言い過ぎだな。「命と同等に」くらいにしておこう。
どうにも締まらないが、とにかく!
僕は言った。
「以相は渡さない」
司法は目を見開いた。
それから、唇の端を吊り上げた。それは作り笑いとしては下手だったが、物真似としては上手だった。
「そうか。ならば――」
「だめ!」
司法の体が傾いだ。誰かが横から体当たりしたのだ。橘だ。
「ぬうう、なぜお前までもが邪魔をする!」
司法は橘を振り払った。橘の短い悲鳴。家具がけたたましく鳴り響く音。老婆の長い慟哭。
僕はその隙に、司法の脇を駆け抜け、応接間から脱出した。
部屋を出る時、倒れたまま動かない橘の姿が視界に入った。心配だったが、今は自分の安全を確保するのが先決だ。
廊下を走っていると、握り締めているスマホの中で以相が言った。
「私のために命を懸けるなんて、どういう風の吹き回しかしら」
「……ただ足が竦んで動けなかっただけさ」
「……あっそ。じゃあこのまま置いていけば?」
「今更そういうわけにはいかないだろ」
玄関に辿り着いた。僕は自分の靴を履いて、玄関扉に飛び付く。
確か司法が施錠していたはずだ。僕はサムターンを捻って、ドアノブに手をかけた。
しかし、開かない。
あれ、施錠していたのは勘違いだったか?
僕はサムターンを戻して、再びドアノブに手をかけた。
しかし、開かない。
……どういうことだ?
よく見ると、扉にはもう一つ別の鍵穴が付いていた。
鍵穴? 家の中から鍵を差し込むのか? 何のために?
「母が徘徊するので、内側からも鍵が必要にしたんだ。この辺は崖があって危ないからな」
振り向くと、廊下に司法が立っていた。猟銃をこちらに向けている。
「階段よ!」
以相が叫んだ。
二階に上がっても袋の鼠ではないか? いや、窓から逃げるという手がある!
僕は土足のまま廊下に上がり、階段らしきスペースに駆け込んだ。
僕はすぐその選択を後悔することになった。
確かに、それは階段だった。
しかし、下り階段だったのだ。
(つづく)
※次回の更新は、9月12日(金)の予定です。








