第三話 桃花【前編】

いつか春永に

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イラスト tacocashi
イラスト tacocashi

   一、

 七十歳になった叔父が、古本から焼き物などの骨董までを扱う『紺鼠こんねず堂』を、そろそろ閉めると言い出したのは去年の暮れのことだった。十二月の穏やかな日差しが差し込む店内でそのことを告げられた時、香子きょうこは自分でも驚くほどあっさりと「ならば自分が継ぐ」と口にした。勤め先の出版社ではアート誌の編集長を務めてはいるが、四十代になり、そろそろ会社に縛られない生き方がしたいと考えていた矢先だった。
「ねえ、この辺の文学全集って、私が子どものころからあるんじゃない?」
 四月某日、会社にも退職届を出し、有休消化に入った香子は、紺鼠堂の片づけを手伝っていた。店主を香子に引き継ぐにあたって、一度棚卸をしながら、どこに何があるかをきちんと把握しておこうという話になったのだ。
「そこら辺にあるのは、もうオブジェだから」
 叔父は新聞をめくりながら飄々と答える。香子が幼いころから、この店が賑わっているところを見たことがない。現在はネットでの売買が主流になっているとはいえ、叔父が紺鼠堂の商売だけでどうやって生きてきたのか、香子にも詳しくはわからない。ただ、彼には妻も子どももなく、そのことが少なからず彼の人生を気楽にしたのだろうとも思う。
「ネットには掲出してる? 意外とこういうの値が付くのよ」
「どうだったかな。三島由紀夫のやつは出したと思うけど」
 紺鼠堂は、叔父が二十代の頃に趣味が高じて始めた店だ。もともとは彼の父―香子の祖父―が、集めた古物などを置いていたギャラリーだったと聞く。継いで残すほどの店じゃないよ、と叔父は言うものの、香子にとってこの店には多少の恩がある。仕事で遅くなる両親を待つ間、幼い香子のよき遊び場になっていたのがここだ。学校帰りの放課後も、両親が出勤する休日も、香子はこの店で古本を読んだり、古切手のコレクションを眺めたりして過ごした。そのためか同級生とは話が合わず、「変わった子」扱いされて孤立していたことは否めないのだが。
「最近、光希みつきには会ってるのか?」
 香子がネットに掲載するために文学全集の画像を撮っている間に、ふと叔父が尋ねた。
「先月会ったよ」
 香子は視線を上げずに答える。光希とは、娘の名前だ。この春で中学生になった。二十九歳の時に職場の同僚と結婚し、娘を出産したが、その二年後に離婚している。その際、親権と養育権は夫が持ち、香子には月一回の面会の権利が与えられた。子どもを産めば母性など自然と芽生えるものと思っていたが、どうやら自分はそうではなかったらしい。
「今月もたぶん会うけど、何か用事?」
 香子が顔を上げると、叔父は新聞に目を落としたまま「いや…」と答える。
「元気かな、と思っただけだよ」
 のらりくらりと縁談をかわし、好きなことに没頭しながら気ままな独身生活を送る叔父とは、昔から気が合った。香子が離婚を報告したときも、独りの方が性に合っているという話をした時も、「俺の血筋かもねえ」と言いながら、穏やかに笑ってくれた。

 紺鼠堂での片づけを終えて、自宅のマンションへと歩いていた香子は、通り沿いに植えられた桜の下で立ち止まった。日当たりがいいのか、すでに花は満開を過ぎ、宵闇の中ではらはらと花雨はなあめを降らしている。紺鼠堂で時間をつぶしていた幼い頃も、嫁と妻と母親をやっていたあの頃も、こんなふうに自分の中から何かが溢れて、零れだしているように感じていた。自分の稼ぎで好きなように生きられている今は、随分息がしやすくなった気がしている。結婚したままでいたなら、仕事を辞めて紺鼠堂を継ぐという決意も、できたかどうかわからないだろう。
 香子が、ふ、とため息をつくと、それに呼応するように花弁が散った。
 嫌味なほど美しいなと、苦笑する。
 再び歩き出そうとした矢先、肩にかけたトートバッグの中でスマートホンが震えた。友人で、作家の由里子ゆりこからの着信だった。出版社のパーティーで知り合った彼女とは、何かにつけてよく飲みに行く。きっと今日もその誘いだろうと予感しながら、香子は通話ボタンを押した。
「もしもし?」
「ねぇ香子、ちょっと付き合ってよぉ。原稿詰まっちゃって。いつもの店でいいから」
 予想通りの成り行きに、香子は苦笑する。最寄り駅も近いので、お互いの中間地点にある店で落ち合うのが常だ。
「締め切り近いんじゃなかったの?」
「だからそのためにブーストかけたいの。燃料アルコールよ、燃料がいる!」
「わかったわかった。いつもの店ね」
 先日も文芸部の担当編集に、由里子先生の進捗をそれとなく確認されたばかりだ。香子の出版社勤務は今月末までだが、きっと彼女との気安い関係はこれからも続いていく。
「すぐ行くから、先に飲んでて」
 そう言った瞬間に、冷えた夜風が舞い散る桜の花弁を舞い上げた。渦巻くような薄紅色に視界が染まり、それが音もなく収まったとき、今まで見慣れた景色に紛れていた古い瓦塀かわらべいの家が香子の目に留まる。

 料亭であり、宿でもあるその店の『常春とこはる』という屋号を、なぜだか鮮明に思い出した。

   ◆

 香子が中学に進学したばかりのころ、紺鼠堂に通う道すがら、一人の若く美しい女性を見かけるようになった。艶やかな黒髪を結い上げて螺鈿の細工が入った扇形のかんざしを挿し、決して派手ではない柔らかな色の小紋を身に着け、珊瑚と銀であつらえた桃の花の帯留めを愛用していた。
 叔父に訊けば、彼女は「桃華ももか」という名前で、近所にある『常春』という料亭の女将だという。彼から得られたのはそれだけの情報だったが、紺鼠堂を訪れる暇な大人たちの噂によれば、元ホステスだとか、売れっ子の芸者だったとか、素性は知れないものの、『常春』を経営するオーナーのめかけだということだった。当時、妾が何を指すのかわからなかった香子は、紺鼠堂にあった古い辞典でその意味を引き、口さがない大人たちが眉を顰める理由を知ったのだ。
 桃の花どころか、夾竹桃きょうちくとうじゃない?
 紺鼠堂にいれば、そんな言葉も耳に入った。夾竹桃は、桃とよく似た花を咲かせる上に、毒を持っている。今思えば、桃の偽物とでも言いたかったのだろう。とにかくいかがわしい女だと思われていることはわかった。それ以降、香子は桃華とすれ違うたびに、そこはかとない緊張感を覚えるようになった。何も知らない彼女は、「こんにちは」と微笑みながら挨拶をしてくれていたが、香子は無言で会釈だけを返して、速足でその場を離れることを繰り返した。そしてしばらく歩いてから振り返り、凛と伸びた太鼓帯の背中が遠ざかっていくのを見送っていたのだ。
 周囲から好き勝手に言われていることを、彼女は知らないのだろうか。
 知っていてなお、その背筋を崩さないのだろうか。
 傍目には堂々と映るその姿が、香子には不思議で仕方がなかった。
「その『常春』っていう店も、実のところ料亭じゃなくて、一見いちげんさんお断りの逢引き宿みたいなところだったの。だから余計に叩かれてたみたいで…」
 思い出した記憶を気の向くままに話していた香子は、口の中を湿らすようにビールを飲んだ。由里子と待ち合わせた店は雑居ビルの中にある居酒屋で、冬でも夏でも名物としておでんを出している。以前は中年男性がほとんどの席を占めていたが、SNSで店主の投稿が拡散され、最近は若いグループやカップルの姿も目に付くようになった。
「昭和初期ならまだしも、当時でも妾なんて時代錯誤だし、正妻の敵だし、私もそう思ってた。…だけど大人になった今は、その立場も悪くないのかも、なんて思うのよね。もちろん本妻側からすれば、冗談じゃないって人の方が多いだろうけど」
 そもそも現代の日本において、本妻以外の女性の面倒をみることは、よほど裕福でない限りできないことだ。生活費の心配がないのなら妾だろうがかまわないし、本妻より気楽だと思ってしまうのは、香子自身が結婚生活に夢を描いていないからだろうか。
 すでにほろ酔いになってきた由里子が、新たにハイボールを注文して口を開く。
「わかる。当然妾は妾なりのデメリットもあると思うけど、義実家との付き合いもしなくていいし、介護もノータッチだし、何より毎日旦那の世話しなくていいなんて最高。週に一回くらい顔合わせるだけで充分」
 香子と同世代であり、すでに四十歳を超えた由里子は、未だ独身を貫いている。過去には同棲をしていたこともあったようだが、売れっ子作家で忙しい彼女にとって、仕事から帰ってくるなり温かい手料理を望み、自分のパジャマや靴下の在処を聞いてくるような男なら、いない方がましだという結論に至ったらしい。もちろん世の中にはそんな男性ばかりではないとは思うものの、疲弊した彼女は一人で生きていくことを決め、老後の資金を貯めながら飼い猫に愛情を注いでいる。
「大人になっちまったわね」
 肩をすくめた由里子が、おでんの大根を頬張った。
「大人になっちまったわよ」