第三話 桃花【後編】

いつか春永に

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前回のあらすじ

家庭環境から同級生となじめなかった香子はふとしたきっかけで『常春』という宿兼料亭に囲われた桃華という美しい妾と言葉を交わすようになる。彼女は内緒話をするように、ある庭を香子に見せるが―。

イラスト tacocashi
イラスト tacocashi

   三、

 翌日の土曜日、香子は娘との面会のために指定されたカフェに向かった。動画でインフルエンサーが話題にしていたというカフェでランチを食べ、その後娘の買い物に付き合うのがいつものルーティーンだった。
「それでね、今度の連休にディズニーランドに行こうって話になって」
 今春から中学生になった光希みつきは、新しくできた友達の話を嬉しそうに香子に聞かせた。愛用しているトートバッグにつけた猫のチャームは、その友人たちとおそろいなのだという。
「だからお願い! お小遣い上乗せして!」
 両手を合わせ、光希は上目遣いに香子を見る。一カ月に一度しか会わないのだからと、その度に小遣いは渡していたが、なるほどそう来たかと、香子はアイスティーに口をつける。
「それ、同じことパパにも言ってるんでしょう?」
 娘と父の関係は良好だ。この話を彼が知らないはずがない。案の定、光希はわかりやすく目を泳がせた。
「言ってないことは…ないけど…」
 要はお小遣いの二重取りを狙ったのだ。我が娘ながら単純な思考だ。
「いいじゃん! パパとママが離婚してるメリットなんか、それくらいしかないんだし!」
 オブラートにすら包まない娘の言葉に、香子は「まあ、確かに」と腕を組む。二人が結婚したままであったら、双方から個別に小遣いをもらうこともなかっただろう。
「いや、でもパパはあんたに甘々だから、離婚してなくてもこっそり渡してる可能性はある」
「あー、それはあるかもね」
 切りそろえたショートボブの毛先を揺らして、真面目な顔で光希が頷く。そして二人して噴き出して笑った。
 父に愛されているという自覚があることはいいことだ。彼は、光希をよく育ててくれている。自分には、母としてそこまでの愛情が持てなかった。けれどそれは、家族としてどうでもいいと思っているわけではなく、こうして月に一度会うくらいの関係がちょうどいいのかもしれない。
 結局自分も身勝手なのだな、と思う。
 妾という立場で、子を産んだ桃華と同じように。
「ねえ、それより服見に行きたい。夏物出てると思うんだよね」
 明るく声を弾ませる光希につられるようにして、香子は口元で微笑んだ。

   ◆

 夕方になり、光希を迎えに来た元夫と合流した。中学生が一人でも帰れる距離ではあるが、買い物のついでにと足を延ばしてくれたようだ。最近はメッセージのやり取りばかりで、まともに顔を見たのはいつぶりだろうか。記憶よりも幾分年を取った気もするが、それほど変わっていないようにも思える。現在はウェブデザイナーをしているという彼は、昔から実年齢より若く見られるのが常だった。
「せっかくだから、このまま三人で夕食を食べに行かない?」
 娘を託して帰ろうとする香子に、元夫がそう声をかけた。人混みに疲労を覚えていた香子は、やや億劫に目線をあげる。
「今から?」
「三人で食事したのって、もう一年以上前だよ。光希も寂しそうだしさ」
 ああ、そうだ。
 この人はこういう人だった。
 たとえ離婚しても、円満な家族の形の中に納まっていれば安心なのだ。それが彼にとっては「正しい形」なのだから。
 両親から少し離れて、スマートホンの画面に目を落としている娘の耳にも、きっとこの会話は聞こえているだろう。けれど彼女は聞こえていないふりをしている。どちらの味方にも付かずにやり過ごそうとする子どもの負担にも、彼は気づいていない。
 このあと香子には予定があるかもしれないという、配慮もない。
「今日はやめとくわ。ゆっくりお酒飲みたいし」
 香子は、できるだけ明るい口調で断った。
 世間から見れば、ずれているのは自分なのかもしれない。家族で食事をするのが当たり前なのかもしれない。幼いころから自分に貼られた「変わった子」というレッテルは、大人になった今もしっかりとこの身に刻まれている自覚はある。
「そう…」
 少し寂しそうにしている元夫の顔を見ていると、決して彼だけが悪いわけではないのにな、という、かばうような感情が湧く。けれど結局その程度だ。
 俯瞰して見られるくらいには、彼との距離は遠い。
「それじゃあ」
 光希にも「またね」と声をかけて、香子はきびすを返した。
 結婚して子どもを産んだはいいものの、夫にも娘にも情以上の愛情を持てない自分を、ずっと不思議に思っていた。そして考えれば考えるほど、自分は幼いころから「変わった子」だったせいで抱え続けた承認欲求を満たすため、「正しい家族の形」を重んじる彼を利用して、結婚や出産を選んだのだと思い知った。そうして世の中に迎合して、あさましくも「そちら側」の仲間に入れてもらおうとした。けれど、本性を隠し通せるだけの根性もなく、他人との生活に耐えきれなくなって、一人「こちら側」に帰ってきたのだ。
 最初から自分は、「そちら側」の世界で生きられるはずもなかったのに。

 電車を待つ駅のホームで、明日のスケジュールを確認しようとした香子は、スケジュール帳を紺鼠堂に置いてきたことに気が付いた。アプリでのスケジュール管理が主流にはなっているが、年代のせいか未だ紙に書く方がしっくりくる上、あちらにしか挟んでいない名刺や、書いていない連絡先もある。それが必要になることはそうそうないとは思うが、やはり手元にないと落ち着かない。仕方がないな、とひとつ息を吐いて、香子は自宅へ帰る前に紺鼠堂に寄ることを決めた。今日は叔父が店を開けていたはずだが、十九時をまわったのですでに閉めてしまっただろう。幸い店の鍵は香子も持っている。手帳を回収した後、どこか適当な店で夕食を済ませようと決めた。
 最寄駅から紺鼠堂に行くまでにはいくつかのルートがあるが、香子はなんとなく『常春』の前を通る道を選んだ。週明けの火曜日に再び尋ね、買取品を引き取ることを春永と約束してある。それが済んでしまえば、もうきっと訪れる機会もないだろう。
 夕闇に染まる通りを歩くと、やがて『常春』を取り囲む瓦塀の白さがぼんやりと浮かび上がるように見えてくる。閑静な住宅街の中に突如現れるその屋敷は、時代の流れに取り残されてしまったもの悲しささえ感じさせた。あの日、桃華が教えてくれた桃の花は、いつごろからか見えなくなってしまった。切られたのか、枯れたのか、それとも植え替えられたのか。なんの変哲もない瓦塀の前に立ってみると、あの花を眺めていた時間そのものが、夢だったのではと思えてくる。

 瓦塀沿いに歩いて、『常春』の門口に近づいたところで、香子はふと足を止めた。ひさしの下、地面に近いところに、黒い影がある。警戒しながら数歩近づいて、ようやくそれがうずくまった人だと気づいた。顔は俯いていて見えないが、彼の履いているスニーカーに見覚えがあった。
「あの…」
 控えめに声をかけてみたが、返答はない。
「春永さん…?」
 名前を呼ぶと、膝を抱える指がぴくりと動いて、とても緩慢な動きで彼は顔を上げた。
…紺鼠堂の」
 それだけを言って、彼は辛そうに目を閉じる。そしてそのまま格子戸にもたれ、重力に従うまま地面に伏せた。
「大丈夫ですか!?
 香子は慌てて駆け寄り、彼の肩を揺する。衣服越しでもわかるほど体が熱い。発熱しているのだろう。助けを求めて香子は周囲に視線を走らせたが、土曜の夜の住宅街に人影は見当たらない。救急車を、とも思ったが、熱が出ていることしかわからない状態で呼んでもいいものかと躊躇する。幸い彼の自宅の目の前だ。一度安静にさせてから判断しても遅くないだろう。
 香子は春永の腕を取って引き起こし、そのまま自分の肩に回して支えた。
「春永さん、家の中に入りましょう」
 耳元で声をかけると、春永は朦朧としつつも薄っすらと目を開け、力の入らない足でどうにか立ち上がろうとする。さすがに成人男性の体重を香子一人で支えるのは困難だ。家の中までは頑張ってもらわねば困る。
「玄関はすぐそこですから。もうちょっとです」
 励ましながら門口を超え、敷石の上を引きずるように進む。普通に歩けば十秒ほどの距離だが、春永がほとんど足を動かせないので、五分ほどかかってどうにか玄関まで辿り着いた。だが、案の定鍵は締まっている。
「鍵は…」
 春永を玄関前に座らせて、香子は手ぶらの彼をやや戸惑って眺めた。なんでもポケットに突っ込む性質たちだろうか。
「失礼します」
 一言断って、香子は彼のパーカーのポケットから探すことにした。そしてスマートホンが入っていた方とは反対側のポケットから、革のキーケースを発見する。
…と」
 香子が鍵を確かめている間に、春永が掠れた声で何かを口にした。
「春永さん?」
 呼びかけたが、春永は答えない。
 代わりに、彼の頬を一滴の涙が伝っていった。