カヌー部の練習は、晴れた日は川で行われる。陸上練習の時はトレーニングルームで筋トレをしたりローイングエルゴメーターを使って練習したりすることが多いが、舞奈は断然水上練習の方が好きだ。カヌーに乗っていると疲れも吹き飛ぶし、何より飽きない。
「はい。一、二、三、四」
荒川の堤防で、五人のカヌー部員は準備体操をしていた。号令を掛けているのは希衣で、彼女を取り囲むようにして残りの四人はストレッチをしている。
Tシャツ、短パン、ビーチサンダル。五月も半ばを過ぎ、練習着はすっかり夏らしいものになった。水上は地上よりも気温が低く感じられる為、普段はこの上からラッシュガードを羽織る。
「いたたたたた」
腕を伸ばして背中を反らしていると、横から富歌の情けない悲鳴が聞こえて来た。
「ちょっと土器さん、声が大きい」
希衣が呆れたように肩を竦めた。上下ジャージ姿の富歌は、不服そうにまん丸な眼鏡レンズを軽く持ち上げた。
「だって痛いんですもん。私、昔から身体が固いんです」
「ストレッチの仕方が悪いんだよ。伸ばすべきところを伸ばせてない。ほら、こっち来て」
「いやいや、いいですって――いたたたたた」
希衣に腕を掴まれ、富歌は奇妙な体勢をとらされている。それを眺めていた千帆が冗談っぽく唇を尖らせる。
「もう。富歌ちゃんには富歌ちゃんのペースがあるんだから、あんまり無理させないであげて」
「さすが千帆先輩、お優しい!」
「そうは言うけどこの子、すぐに手を抜くんだもん。ストレッチをサボると、水上で足が攣るかもよ」
「脅さないでくださいよー」
「脅しじゃない、真実だよ」
「ヒエッ」
富歌が大袈裟に身を震わせる。彼女が身体を動かした途端、金フレームの眼鏡がズレた。
ストレッチを終えた舞奈はその場で軽く上半身を捻った。空を見上げると、今日は見事な快晴だった。真っ白な雲の隙間から太陽が顔を出している。
五月ということもあり、足元に生える草はどれもが鮮やかな緑色をしていた。自由に伸びるカラスノエンドウは、可愛らしいピンク色の花をつけている。蔓のようにしなやかな茎には小さな豆の入ったサヤが並んでいた。
その内の一本を抜き取り、舞奈は先端から優しく開いた。中には小さな豆が密集しているため、それを指先で綺麗に取り出す。中身が無くなったことを確認し、今度は付け根を斜めに千切った。口に咥えて息を入れると、ピーッと独特な音がする。
「豆笛だ」
隣に並んだ千帆が、同じようにカラスノエンドウのサヤを引き抜く。黒のキャップを被った恵梨香が「何してるの」とこちらに近寄って来た。
「ピーピー笛を作ってたの。恵梨香、吹いたことある?」
「全く」
「こうやったら音が出るんだよ」
もう一度息を吹き込むと、サヤは高らかに音を鳴らした。キョトンとした顔で、恵梨香が軽く首を傾げる。
「それを吹いて、何があるの?」
「何もないけど楽しいよ」
「ふーん」
「恵梨香もやる?」
「……いや、遠慮しとく。ここ、犬の散歩コースだから」
クールにそう言い放ち、恵梨香は艇庫へと進んでいった。千帆と舞奈は顔を見合わせ、その背中を追いかけた。