第二章 あてのない未来と約束【2】
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前回のあらすじ
喫茶せせらぎで行われた、埼玉県大会の打ち上げ。芦田の料理を囲んだ後、夕暮れの川に漕ぎ出るカヌー部員たち。希衣の父親がもってきた灯篭を並べ、しばし安らぎのひと時を味わった。
side 希衣

大会一週間前の土曜日。この日の練習は、残念ながら恵梨香は欠席だった。トレーニングセンターで蘭子と練習しなければならないらしい。
関東大会の結果はインターハイには関係しないが、それでもできるだけペアやフォアの練習がしたかった。だが、恵梨香は恵梨香でアスリートとしての練習プランがある。こちらを優先して欲しいと言うのは、きっとワガママなのだろう。
「恵梨香がいないとフォアの練習が出来なくて参っちゃいますね」
「仕方がない。今日はシングルの練習に切り替えよう。なんだかんだ言って、九月には土器さんも大会に出なきゃいけないんだし」
「エッ、私ですか?」
当たり前のことを言っただけなのに、練習着姿の富歌はわざとらしくその場で飛び跳ねて驚いてみせた。千帆はふふふと笑う。
「富歌ちゃんも上手くなってきたよね。この前、五十メートルなら漕げるようになってたし」
「大会は五百メートルだけどね」
「もー、鶴見先輩ってば厳しい!」
富歌が片頬を膨らませる。それをスルーし、希衣は水色のライフジャケットを装着した。まだ準備を進める三人を他所に、「先に行くからね」と声を掛ける。
シングル艇を一人で運ぶには少しばかりのコツと、筋肉がいる。神輿のように片側の肩で担ぐのだ。
浮桟橋までの道程を歩いている間、サンダル越しに小石のようなものを踏んだ。痛みはないが、妙な違和感だけがある。立ち止まってサンダルの裏を確認するも、特に変わった様子はなかった。
そのまま、希衣は浮桟橋に寄せるようにしてカヌーを置いた。カヌーの先端にはスポーツウォッチがついており、自分の心拍数やパドルの回転数、移動距離などが把握できるようになっている。大会前に絶対に漕ぎすぎるな、と芦田からは耳にタコができるほど言われている。オーバーワークで全力を出せないのが希衣のこれまでの悪い習性だった。
「希衣せんぱーい」
カヌーに乗り込み岸から離れようとした時、浮桟橋の向こうから舞奈がひらひらと手を振って来た。黄色のラッシュガードは蛍光色に近く、離れていてもよく見えた。
去年の今頃は転覆ばかりしていたのが嘘のように、舞奈は滑らかに艇へと乗り込む。パドルを動かし、舞奈は希衣の方に近寄って来た。
「千帆たちは?」
「後から来るみたいです。ちょうど檜原先生が来て話し込んでて」
「そうなんだ」
パドルを水に差し込み、艇ごと自分の身体を引き寄せる。再びパドルを抜き取り、また遠くへ差し込む。その繰り返し。艇はするすると前進し、水面にはいくらか飛沫が散る。
「黒部さん、調子はどう?」
「ぼちぼちです。頑張りたいとは思ってるんですけど」
「焦らなくていいよ。大会、めいっぱい楽しもう」
そう告げると、舞奈は何故か驚いたように希衣の顔を凝視した。
「な、なに?」
「いや、希衣先輩がそういうこと言うの珍しいので」
「そうかな?」
「私はそう言ってもらえて嬉しいですけどね。へへっ」
照れたように笑い、舞奈がパドルを動かす。彼女の柔らかな癖っ毛がその肩口でふわりと跳ねた。
「あ、そういえば、私のお兄ちゃんが来週の関東大会を見に行くかもって言ってました」
「お兄さん? お姉さんではなく?」
舞奈の姉である大久保愛奈とは埼玉県大会で会ったことがある。舞奈の家は両親が離婚しており、彼女の方は母についていったらしい。既に社会人で、しっかりと自立した女性という印象がある。
「三つ上の、大学生の兄もいるんです。今は墨田大学でインド哲学を研究してて」
「インド哲学って何?」
「私もよく知らないんですけど、面白いって言ってました。業とか真我とか。大学院に進んで、行く行くは研究職に就きたいらしいです」
「へぇ、よく分かんないけど立派だね。それで、そのお兄ちゃんがなんでまたカヌー大会に? あ、黒部さんの応援か」
「うーん。お兄ちゃん、アウトドアは嫌いなタイプなので、普段だったら来たがらないと思うんですけどね。なんでだろう」
「大学に入ってカヌーに興味を持ったのかもよ? 墨田大学は強豪だし」
「可能性はありますよね。お兄ちゃんもカヌーを始めてくれたら楽しいだろうな」
はしゃぐように、舞奈はその場で上半身を左右に揺らした。それでも艇は傾かない。
「……黒部さん、カヌー上手くなったよね」
「えっ、漕ぐのはこれからなのに」
「漕ぐ前から分かるってこと。さ、とりあえず五百メートル流して漕ごっか」
「はい!」
希衣がパドルを動かし始めると、舞奈がピタリとその後についてくる。水面に映る二人の姿は、どちらも楽しそうだった。